思春期と越境――『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』感想

(公開当時に他ブログにて書いた記事http://magnetmikan.hatenablog.com/entry/2017/08/21/014813

を改稿したものです)

 

 思春期のノスタルジーを、きっと誰もが愛している。夏祭り、かまびすしい蝉の声、ささやかな家出、自分よりちょっと大人な女子……。1993年に岩井俊二が監督した『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、抑制された脚本と画面で、そんなささやかな等身大のドラマを語った。では2017年に公開されたアニメ版リメーク『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』はどうか。

 

「自分よりちょっと大人な女子」ここは外していない。花火は丸いか平たいかなどという馬鹿丸出しの言い争いに夢中になる男子どもの幼稚さに比べて、なずなが纏う雰囲気は、いかにも中学生離れした「オトナ」のものだ。典道より背丈も高いし、落ち着いているし、泳ぎも速い。「家出」を「かけおち」と言い換えたり、ワンピース姿を披露して「16歳に見えるかな」と呟いてみたり。少年たちにとって、彼女は自分の知らない「オトナ」の世界へと一足先に参入したマドンナとして立ち現れることになる。

 しかし、そんなマドンナとて結局は親の重力から逃れられない一人の子供でしかない。母親に腕を掴まれたなずなは、これまでの謎めいた「オトナ」イメージを振り捨て、激しく暴れ抵抗する。力負けして親に引き摺られながら典道に助けを求める彼女は、これまでとは全然違う、幼い女子中学生としての自らを剥き出しにしている。

 注目すべきは、この決定的に物語が動く場面において、なずなも親という現実を前に一人の子供でしかないという事実が強く提示されている点だろう。彼女が「オトナ」でいられるのは「家出」や「かけおち」という可能性、「もしかしたら」という期待の世界の中を生きているときであって、現実がそこに追いついたとき、彼女の超越性はたちまち消失してしまう。ここから現れる、美しい期待/残酷な現実、という対照性。典道となずなは現実を振り切り、可能性、「もしかしたら」の側へと逃避行を続けていくことになるのである。

 

 この映画にあっては、タイムリープを行えば行うだけ、映像的にも物語的にも、その虚構性が増大していくという(それ自体興味深い)構造を指摘することができる。歩道と草原の間の溝を飛び越える、プラットフォームから電車に飛び乗るなど「越境」のイメージが作中何度も強調されるように、彼らが「もしこうだったら……」を重ねるたび、幻想の世界は奥へ奥へと彼らをいざなっていく。打ち上げ花火は平たくなり、なずながお姫様になり、どこからともなく馬車が出てきて、電車で海を渡る。現実は母親や祐介たちと同じように、どんどん後方に遠ざかり、やがて消える。彼らが最後に辿り着く世界は、何やら波紋状の透明な壁に覆われてしまっている。願望の終着点、二人だけのセカイ。

 だが平べったい打ち上げ花火が存在しないように、「典道くんの世界」は所詮幻想でしかありえない。ふとしたきっかけで、謎のガラス玉は花火として打ち上げられてしまう。ガラス玉は膨張して破裂し、そして各々の「あり得たかもしれない幸せ」が破片として降ってくる。本編最大のクライマックスだ。

 ラストシーンをどう解釈するかにもよるけれども、この映画は実は古典的な「行きて帰りし物語」の構造に立脚していると言えるだろう。人は、越境と帰還というイニシエーションを経て、何かを失い、何かを得る。思春期という季節が、開かれた可能性の中から何かを選び取り、他の可能性を喪失していくプロセスなのだとしたら、そこには常に「あのときそうしていれば……」という思いが付きまとうはずだ。ならばifへの憧憬の象徴が砕け散り、典道くんがその破片の一つを手にするシーンは、思春期の普遍的な局面を表現するものでもあるだろう。

 ラストシーンは複数の解釈を許し、やや不気味な印象を与えもする。なずなの過去にまつわって水死体-ガラス玉のイメージが置かれており、典道はそれをなぞる形で海に飛び込むからだ(こういう挿話や小道具が照応するつくりは巧いと思う)。公開当時は「典道が元の世界に帰ってこられなくなった」「死んだ」と受け取る人も多かったと記憶している。ただ、個人的にはそうではないと思う。なにせ典道の場合、あのガラス玉は破壊されてしまっているのだ。

 とすれば、典道はガラス玉=ifを失った世界の中で、それでも目指すべき未来を見つけた、という解釈が導かれるはずだ。だから彼はきっと、転校したなずなを追いかけに行ったのだ――観た当時からそう思っていたが、後に出たコミック版ではこの解釈が採られていて(と記憶している。いま手許にないのだが……)、ちょっと嬉しくなった。

 

 映画館でこの作品を観たときのことは、今も覚えている。劇場が明るくなった途端に女児が「何これ?」と野次を飛ばし、デブのチェック柄アニメオタク二人組が「脚本で失敗している」などとデカい声で論評を語り合い、高校生カップルは気まずい雰囲気を漂わせつつ早足で劇場を後にしていた。ネットには酷評が溢れていた。こうした「満場一致」感のある世評に、いまさら異議申し立てをしようとは思わない。確かにひどい出来栄えの映画だと思う。

 ただ、このリメークには、原作を大胆に読み替えてやろうというチャレンジの精神がある。それは確かだ。そのような失敗作は、失敗作なりに肯定されてもいいのではないか、と思う。