『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』感想

(ネタバレ有)

 

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 かつて18世紀のヨーロッパで、手紙というメディアはその最良の繁栄を謳歌していた。ほぼ唯一の連絡手段として、あるいは自己表現として、人々は手紙を書き送った。やがて19世紀末から20世紀にかけて電話が普及し、手紙はかつてのような地位を追われていく。電灯や電波塔の建設にそうした時代の転換をみながら、本作はある姉と妹の物語を紡いでいく。

 時代が変化するように、人もまた変化していく。だいいち『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の基幹にあるのが、主人公ヴァイオレットの身体の変化である。即ち少女兵としてのみ存在し得る身体から、自動手記人形=媒介者としての身体へと。「外伝」では、ヒロインのイザベラ・ヨークの変容が描かれていく。何者でもなかった貧民から一転、貴族としての地位を与えられ、その階級、ジェンダーに相応しい存在へと規律=訓練されていく。「僕」は「私」になる。しかし、その過程において――ヴァイオレットとの交流の中で――彼女はひとときだけ、階級に縛られない自由を見出すのだ。その関係は、何となく戦前の女学生のエス文化を思わせるものがある。ヴァイオレットの帰還によって、彼女が再び鉄格子=階級の中に閉ざされるところで一部は終る。

 二部では妹テイラーの物語が展開され、彼女もまた孤児から配達員に生まれ変わっていく。一方は階級に閉ざされていく者として、一方は媒介者として自らを作り替えるのだ。やがて妹は完璧な配達員として、名実共に貴族となった(なってしまった)かつての姉の許に赴くだろう。史実がどうであったかはさておき、本作においては「手紙」に、階級を超える繋がりの希望が仮託されているわけだ。

 二つではほどけてしまいますよ、三つで結えば…とヴァイオレットが言うように、本作ではヴァイオレット(というかベネディクト君なども併せて「郵便社が」と言うべきかもしれないが)が姉妹を媒介する第三の存在となる。実際「外伝」では、一度目はイザベラと、二度目はテイラーと、都合二回もヴァイオレットの入浴シーンを拝めるのだが、勿論単なるサーヴィスではなくて、恐らくは剥き出しの身体同士が出会うということが重要なのだろう。普段は見えない義手と肉体の接合部が、かつて「戦う人」であり、いまは「書く人」となった彼女の痛ましい来歴を窺わせる。なるほど彼女の存在は矛盾だらけかもしれない。しかしそんな二つの人生をその身体に引き受けて生きる彼女だからこそ、異種になってしまった者同士を繋ぎ合せることができるのかもしれない、とも思った。

 あったことをなかったことにすることはできない。これもまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』全体を貫くテーマである。ヴァイオレットが兵士であった過去を捨て去ることができないように、イザベラもまた貴族の道を選んだことを取り消すことはできない。彼女は貴族の妻として生きていくのだろう。しかし、その中でなお、彼女にはエイミーとしてかつて呼ばれた身体が、妹その人の名前を叫べる身体がある。彼女が貴族の衣裳を棄て、再びエイミーとしての身体を取り戻す瞬間は美しい。不可逆の変容の中にあってなお、人は手紙によって、自己表現によって、再生の機を見出すことができるのだ。その意味で、本作は表現による再生を、分断の超克を、どこまでも素直に歌い上げた作品であろう。確かにそのような理想は、今や大時代的なものとなりつつあるかもしれない。しかし、だからこそと言うべきか、今そのメッセージが確かに届けられたことに、胸を打たれるほかはない。

 なお、エンドクレジットで席を立つことを無闇に非難する風潮は私は嫌いなのだが(いつ出入りしようが客の自由だろうと思う)、本作に関してはやはり最後の最後まで観るべきだろう。本作を観た者なら、新作の予告に附された「鋭意制作中」の言葉に、きっと特別な思いを抱かずにはいられないからだ。何年でも待つから、焦らずゆっくりと再生の道を歩んでいってほしいと思う。