中村文則についてあえて語る

(2021/12/02改稿。「僕」という一人称で誰かを罵倒するという記述の形式にこそばゆさを感じる年齢になった)

 書店に行く人なら誰でも、「中村文則」という名前を記され、百田尚樹の左隣あたりに平積みされている分厚い書物を見たことがあるだろう。「光と闇」とか「絶対的な悪」とか「生きている確率は4パーセント」とか、三流邦画みたいな大仰なフレーズが帯にてんこ盛りになっているあれだ。

 中村文則。この人は純文学クラスターの中では抜群の売れっ子作家だし、現在、新潮文学賞の選考委員を務めており(大半の応募作は少なくともこいつよりはハイレベルなんじゃないだろうか)、文壇の中枢に見事に収まっている。文芸誌の批評欄はとっくに馴れ合い翼賛体制に入っており、その職責に見合う批判がまったくなされていないあたりは、昨今の末期的な政治風土を連想させると言うべきか。

 タイトルから察していただけるかと思うが僕はこの作家が死ぬほど嫌いだ。よって以下、その理由を述べる。なお「嫌い嫌いも好きのうち」とか「愛ゆえの批判」とかそういうアイロニーは、ここにはまったくないことを予め明記しておく。単にクソをクソと言うだけの話である。

 

作文能力の低さ

 単刀直入に言うべきだろう。この作家が駄目なのはまず文章、日本語だ。

 男は五十代に見える。着ているスーツは安くはないが、特別に高いものでもない。靴も、時計も、趣味は悪くないが、特別によいとも言えない。顔は醜くはないが、決して女を惹きつけるものではない。

  男は携帯電話を切り、気だるそうに視線を斜めに向ける。そこには三十 代くらいの男が いる。その男は趣味のいいスーツを着、パソコンの画面 を見つめている。目が大きく、眉も奇麗に整えられ、比較的女を惹きつける 外見をしている。(『教団X』集英社2015年)

 初期の山田悠介みたいな生硬な文章だが、それ以前の問題として、この記述を読んで「五十代の男」や「三十代の男」について何か具体的なイメージを抱ける人間が地球上に存在するのだろうかという疑問がある。もしいらっしゃるとしたら聞いてみたい――「趣味は悪くないが、特別によいとも言えない」って何?

 これだけ短い文章中に繰り返される「女を惹きつける 」なる意味不明なレトリックにも注目しておこう。これは具体的にどういう外見なのか。その細部を言葉にしなければ、何も表現したことにはならない。言うまでもなく、モテるルックスにも種類というものがあるからだ。ともあれ中村の小説は、おおよそすべてこんな調子の不正確な文章で構成されている。読者や編集者は読んでいて気にならないのか?

 解説文は小説より多少はマシだが、まあ似たようなものだ。

 社会の『普通』を揺るがす作品を書き続けている村田沙耶香という存在は、僕にとって、とても重要で特別な存在だったりする。天然の爆発力のように見え、とても巧みだったりする。非常に希有な才能でもある。こういう作家が、同じ時代にいて本当に良かったと、僕はもうずっと思っている。(村田沙耶香コンビニ人間』文春文庫2018年)

 何だか出来の悪い大学生が〆切に追われて書いた水増しレポートといった印象を抱かせるこれらの記述もまた、「重要」とか「特別」とか抽象的な語が乱発されるばかりで、文章がまともな論理を組織していないことがわかる。ついで言えば、この何の意味も配慮もない「ったり」という言い回しが、セーターにくっついた大量の御飯粒のような不潔感を抱かせはしないだろうか。「重要で特別な存在である」「とても巧みだ」では駄目なのか。そんなに口語調にしたいのか。

 なお、彼には絶望的なまでにユーモアのセンスがない(たまにギャグらしき何かが出てくることもあるが、その滑り方が痛ましいだけ)のだが、ときおり以下のような失笑を誘うくだりもあり、索漠とした読書の中で一服の清涼剤になってくれる。敵国の女性兵士が死を覚悟して、さして親しくもない主人公にいきなりキスをせがむというシーンだ。

「……矢崎」アルファの目がうっすら開き、呟くように言う。

「キスして、……くれないか」

「え?」

 アルファが弱々しく笑みを浮かべている。

「私は、ずっと、銃を持って、……暮らしていた。……ヨマ教の、私の宗派は、婚前交渉を、禁止されている。……だから、そういう、経験がない。……幼少の頃の、その片思いだけだ」

 矢崎はアルファを抱き起こし、キスをする。一度唇を離した後も、矢崎はもう一度キスをする。矢崎とアルファの目に涙が滲んでいく。

「……これが、恋愛というものか」

 アルファが矢崎を見つめて微笑む。

「……いいものだな」(『R帝国』中央公論新社2017年)

 

 無論、文章のうまい下手というのは一律的な基準で評価できるものではないし、それだけで文芸作品の価値が決まるわけではない。ただこいつの場合は下手さ加減が論外すぎて、まともに読む気になれないのである。 

 

メロドラマと政治

 男は児童虐待のトラウマで希志念慮、女は流産で不感症。芥川賞受賞作『土の中の子供』は、こうしたメロドラマ的設定がメロドラマ的な文章でメロドラマ的に展開していく、ただそれだけの作品である。これでも彼の本の中では相当マシな部類なのだが、受賞に反対した村上龍は、選評で以下のように述べている。

  虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない。(中略)『土の中の子供』は、そういう文学的な「畏れ」と「困難さ」を無視して書かれている。深刻さを単になぞったもので、痛みも怖さもない。そういう作品の受賞は、虐待やトラウマやPTSDの現実をさらにワイドショー的に陳腐化するという負の側面もあり、わたしは反対した。(『文藝春秋』2005年9月号)

文藝春秋

  これは、彼の小説のほぼすべてに該当する指摘と言える。ここでの「虐待」が、『掏摸』や『悪と仮面のルール』(このタイトルセンスの不在ぶり)では何かしら巨悪の「陰謀」に、『教団X』では「カルト」と「テロ」に、『R帝国』では「戦争」と「独裁」に、どんどんエスカレートしていったわけである。いや、もっとはっきり言えば、通俗的で刺激的な題材に次から次へと飛びついていったわけだ。そうした題材の数々がそれぞれに孕む「痛み」や「怖さ」は、そこでは無視され続けている。そんなことにかかずらっていたら、善悪二元論的な世界観が崩れてしまうからだ。

 メロドラマは極端さを要請する。正義と悪、卑賤と高貴、愛と憎しみ、希望と絶望……誇張されたコントラストで、メロドラマは物語にどぎつい精彩を与え、読者の期待に応えようとする。中村が何故か近頃目の敵にしている新海誠の『君の名は。』は、都会と地方、生と死、ティーンエイジャーの恋愛と宇宙規模の事象という極端な対照性を最大限に利用して見る者を惹きつける、模範的メロドラマである。

 中村の小説に出てくる「悪」も、この力学に従って、どんどん大規模化、大仰化していった。「銃」を手にとった青年の心理から、国家的テロへと。一方、作中にあって中村の考える「正義」が投影された人物は、そこに何の陰影も人格的深みもない平坦な「賢さ」「美しさ」の記号としてのみ存在し、その崇高さを周囲の「愚か」で「醜い」人間との対照でさらに際立たせるという構造が無批判に採用されていくことになる。

 ただ中村は、自分をメロドラマ作家だと自覚してはいないだろう。「リベラル」で「反体制」の、勇気ある政治的作家だと自ら任じている筈である。そのため、彼の小説の登場人物たちは愚にもつかない政治分析や自己啓発的なテツガクの開陳で紙面を埋め尽くし、まともな読者から読む意欲を喪失させてしまう。ここに、職人的なメロドラマ作家である新海誠との決定的な差があるわけだ。

 言うまでもないだろうが、小説に政治的言説を書くのは駄目だとかそういう話をしているわけではない。それがメロドラマ的単純と迎合したとき、何とも幼稚で独善的な言説がそこに生み出されることになる、ということだ。代表的なのは『R帝国』のそれだろう。構造的な貧困の問題がいつの間にか個々人の「善意」の問題へと矮小化され、先進国の人間がもっとよく学び生活意識を改めれば世界は変えられるんだよ、さあ、スマホを置いて、世界に目を開いてごらん――的結論に至る。要は単なる自己啓発である。

 そもそも「善意」で弱者を救うことが美しいという道徳教育的な発想自体が馬鹿げているのであって、そんな救済は、仮に可能だったとしても(もちろん不可能だが)、そこに経済的格差を前提とした「救う側」と「救われる側」の倫理的格差とでも呼ぶべき構造を代わりに生じさせてしまうはずだ。メロドラマで政治を語る者は、大抵の場合、自己陶酔のために政治的言説を利用しているので、かくのごとく社会に対する真摯な思考や感性を欠いてしまうわけだ。

 結論を言っておこう。「芸術家は政治に関わるべきではない」とかいった田舎の風習が主張されているわけではないということは、全体の文意からおおむね理解してもらえると思う。問題はメロドラマや政治そのものではなく、その安易な結びつきにある。

 

 かつてフランソワ・トリュフォーは、フランスの既成映画を批判して以下のように述べた。論旨と直接には関係しないが、中村の本を読むたび思い出すくだりなので引用しておく。

わたしはかならずしもメロドラマを軽蔑するわけではなく、嫌いというわけでもない。美しいメロドラマは感動します。ただし、それはあくまでも単純にメロドラマであるがゆえに美しく感動的なのです。ところが、単なるメロドラマであることを恥じるかのように「心理的リアリズム」などという知的で意味ありげな衣をまとって大衆をだましたのが、かつての伝統的なフランス映画だったのです。(中略)だいいち、「心理的リアリズム」とはまったくの嘘で、主人公の男あるいは女はひたすら感じがよくて正直で、妻あるいは夫を裏切ったりしないし、誰のことも傷つけない。悪意もなく、およそ人間的な欠陥のない善良な人物なのです。周囲の人間は、逆に、卑劣な悪党ばかり。純粋な心を持った主役のせりふは美しく感動的で、傍役の言うことは悪意にみち、愚劣で滑稽という、なんとも鼻持ちならない図式です。純粋な魂が社会の無理解と悪意に傷つき、不幸な運命にうちひしがれる――そうしなければ感動的にならないというような映画のつくりかたそのものが、いかにもいやしくて、やりきれないと思いました。(山田宏一『わがフランス映画誌』平凡社1990年収録)

 

ポリフォニーとは何か

 ところで中村はかねてよりドストエフスキーからの影響を公言しており、『教団X』(もう名前も出したくない)の教祖様はスタヴローギンの稚拙な模倣だったりするのだが、ここにも疑問がある。というのも、彼は本当にドストエフスキーを理解しているのか、ということである。

 ポリフォニーという概念を御存知の方は多いと思う。ミハイル・バフチンが『ドストエフスキー詩学』で用いた概念だ。作者によるひとつの視点に収斂しない、それぞれに独立した複数の声がぶつかり続けることで生れる対話性が、ドストエフスキーの小説の特色だというのだ。それが中村の手にかかると、次のような理解になるらしい。

逃げる山崎のパートのほか、作中には創作や対話、手記といった形でさまざまな物語が交錯する。「ドストエフスキー的なポリフォニーを意識しました」と中村さん。

小説家・中村文則、過去の凄惨な出来事を“あえて”書く理由とは | ananニュース – マガジンハウス (ananweb.jp))最終閲覧日2021年12月2日

インタビュワーが曲解しているのかもしれないが、これは明らかにおかしい。中村は後に「作者とは違う考えもあえて書き込んで」と続けているが、そういう問題でもない。これももう言うまでもないことだが、「手記」とか「告白」とかをあれこれごちゃ混ぜにしたり、『作者とは違う考え」を書き入れたりしても、それでテクストが多声的になるわけではない。

 そもそもこの作家の技術的な問題点として、複数視点の切り替えが死ぬほど下手という事実が挙げられるので「物語が交錯する」ような小説など、むしろ書かない方がよいのではないかという気もする。『教団X』を見てみよう。

私は日本に帰り、自分から師に連絡した。連絡を取った翌日、私の部屋の壁にinvocationの文字があった。私はそれを見つけ、(手記はここで終わっている) 

 こんなところで都合よく手記の執筆を中断する人間がどこにいるもんか、というのがリアリズム小説を読み込んできた一般読者の感覚というものだろう――というか、だいたいこの小説の登場人物たちはひとりとして自然な思考な行動をせず、すべて作者の恣意によって動かされる駒でしかないので、この種の突っ込みをするのも馬鹿らしく思えてくる。漫画みたいなテロ計画、どいつもこいつも頭が空っぽの女たち、何の脈絡もなく始まる政治談議、とつぜん中国に向けて戦闘機を飛ばす自衛隊員、どう考えても不合理な陰謀を張り巡らせる公安……。もっと例を挙げようと思ったが、そうすると小説内のほぼすべての箇所を引用することになるので、止しておく。

 こうした杜撰な作劇が平然と行われるのは、作者が小説というものをアジテーションの道具としか見做していないからだろう。だから、構成要素のすべてが作者の思想を伝達するための書割になってしまう。そのうえ前章でも指摘した通り、中村の小説世界にあっては「正しい側」と「間違っている側」は最初から決まっている。対話や議論の余地は最初からないわけで、その構図のもとで「作者とは違う考え」がいかに書かれていようが、それが最終的に否定されるものである以上、そこにどんな多声性も生じるはずがないではないか。

  いずれにせよ、中村の小説が、ドストエフスキーの美質であるところのポリフォニーとは何の関係もないところで成立していることは誰の目にも明らかである。「ドストエフスキーの影響」などと言って彼を褒め称えている読書人たちがそれを理解していないとも思えないから、彼らは権力者相手ならどんなおべんちゃらでも平気で並べる連中なのだろうと推測するしかない。

 

まとめ

 何も「中村文則を好きなやつは馬鹿だ」とか、そのような強い主張をするつもりはない。僕は批評家でも文学裁判官でもないからだ。中村の小説を愛する人は確かに一定数いるのであり、それを否定しても仕方がない。読書は本来個人的な行為であって、他人にとやかく言われる筋合いはないし、また当然のことだが、文学作品の評価が一意に定まるということもありえない。

 しかしそうした不確かな表現様式を共有するのであれば、作家の側にもそれに見合った慎重さ、謙虚さが要請されるはずだ。中村の最大の問題はまさにそこであって、彼のテクストにはそうした慎重さ、謙虚さが全く感じられないのだ。伝わってくるのはただどこからか借りてきたような皮相的な正義感だけであり、読者はこれを全面的に受け容れて彼の小説を読むことを強要される。しかし政治の世界にあってそんなに「正しい」言説がそうそう存在する筈もなく、実際正しくもなんともないのであって、その理由は既に述べた通りだ。

 読者が自分で何も考えず、作者の主張にひたすら盲従することだけが要請される小説――むしろその点こそ、中村の人気の秘訣なのかもしれない。彼の小説には本質的な苦悩や問いかけが何一つない(深刻ぶった大仰な道具立てがこけおどし以外に何の意味もないこともまた先に論じた通り)ので、あらかじめ答えは決まっているという安心感をもって、読書に臨むことができるわけだ。

 それで実際売れているのだから、戦略としてはいいのかもしれない。だが、そうした戦略は百田尚樹などに限りなく類似するものであって、そのような本の書き手が自らの寝言を「自由思考」などと銘打って宣伝していることの滑稽さは、やはり指摘しておかねばならないことだろうと思い、この記事を書いた。