『HELLO WORLD』感想


映画『HELLO WORLD(ハロー・ワールド)』予告【2019年9月20日(金)公開】

 

 

 アニメが記号化の表現様式であるということについて異論はなかろう。とりわけデフォルメと様式美を大事にしてきたジャパニメーションにあっては。従って、日本のアニメを肯定するためには、記号の消費を何かしらの形で肯定するような戦略をとる必要がある――と、ひとまず言うことができる。

 その点で『HELLO WORLD』はまさに記号との戯れを生きる映画だ。だいたい「新世代のアニメーション」とか名乗るわりに、そのキャラクター表現は全部クリシェのパッチワークである。主人公は絵に描いたような文学青年でヒロインは絵に描いたような文学少女。彼らの来歴や人格形成にまつわる掘り下げなどはほぼ全部省略される。京大の先生が見た目からしておかしなおっさんだったり、アイドル的な立ち位置の赤髪少女はキラキラオーラが御丁寧に視覚化されていたり。とにかくこの作品は、人物描写と呼ばれる回りくどい手法を避け、すべてをこの種の記号化で処理していくのだ。3DCGの、精緻ではあるが些かぎこちない描画も、この映画のデジタル感、ゲームっぽさを助長させるだろう。

 実際、この映画の世界はデジタルに捏造された世界なのである。実は主人公の直実くんの住んでいる世界は「京都クロニクル」プロジェクト――昔の京都の街並を、無限の記憶容量を駆使して現実世界と変わらない精度で記録するシステムらしい――によって作られた過去のデータの塊であることが、早々に判明する。この設定がなかなか興味深い。「京都」というのは観光業界や広告産業によって徹底して記号化され流通しているイメージであって、仮想現実技術で丸ごと再現しちまおう、というのはいかにも「ありそう」な話である。「京都」とはローカルであると同時にグローバルな、超俗的であると同時に通俗的な、アナログであると同時にデジタルな、要は両義的な場所なのだ。

 非-歴史的に生み出された歴史的都市――だから、本作に現れる「京都」に、風土の匂いやら歴史の厚みやらはぜんぜんない。単に文学系少年少女のゲームみたいな恋愛を彩る記号として現れ、やがてゲームみたいに壊されるだけである。

 

 本作の序盤の主筋を成すのは、むろん恋愛である。ただこれにしても、10年後からやってきたナオミは、もちろん恋愛に至る経緯を全部知っているわけで、直実はその通りに行動しさえすればつつがなく彼女をゲットできてしまう。攻略本を片手にギャルゲーやるようなものだ。

 人やモノや出来事の個別唯一性がほとんど意味をなさないということは、本作の作品世界の特徴と言える。グッドデザインなる万能手袋(?)によって改変されていく世界が象徴するように、この映画にはおおよそデジタルに操作可能なものしか出てこない。いやいや中盤以降を観ろ、直実=ナオミは自らの感情と意志で運命に挑み、唯一的なるもの=一行さんを救おうとするじゃないか、と言う人がいるかも知れない。ただ、それすら仕組まれたものだったことを暴露するのが、あの最後の最後の大技である。だから、あの最後の数カットにしか「人間」は出てこない、とも言える。これについては後述。

 後半は、直実くんのトンデモアクションとぐちゃぐちゃに破壊されていく京都のシークエンスで構成される。暴力的な本能にガンガン訴えてくる映像で痛快だが、これもまたゲーム的だ。そしてすべてが滅茶苦茶に破綻した果て、彼らは新しい世界に辿り着く。雨上がりの夜明け前、空虚な静けさに沈む街を見つめる二人の姿は、それまでの騒然たる破壊と見事な対照を成しており、結構グッとくる。ここに至ってようやく解禁されるキスシーンも、あえて直接は見せず、水面の反映を使って表現するなど、この映画らしからぬ(?)繊細さを宿して印象的で、またアダムとイヴにまつわる神話的なイメージをも連想させる。ああ本当に彼らは新世界に行ったのだと映像的に納得させられる、ここは普通に映画として巧いと感じたポイント。

 これで終わりでも俺としてはぜんぜん良かったのだけれど、この映画はあえて件のラストシーンを入れることで、物語的にも主題的にも、それまでのすべてを覆してみせる。「ラスト1秒でひっくり返る」というのは流石に誇大広告で、正確には「ラスト数十秒」と言うべきだろうが、まあ「ひっくり返る」ことは間違いない。ではここで物語があらわにする真実の姿と、はいったいどんなものなのか? 詳述はしないけれど、要するにこの映画は、無数の記号たちとの戯れと愛と破壊を経て、自己の回復に至る「人間」の物語だったのだ。よくあるセカイ系のやつでしょ、とスルーするにはあまりにもったいない、2019年日本映画界のひとつの収穫である。

 

HELLO WORLD

HELLO WORLD

  • 発売日: 2020/03/08
  • メディア: Prime Video
 

 

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』感想

(ネタバレ有)

 

youtu.be

 

 かつて18世紀のヨーロッパで、手紙というメディアはその最良の繁栄を謳歌していた。ほぼ唯一の連絡手段として、あるいは自己表現として、人々は手紙を書き送った。やがて19世紀末から20世紀にかけて電話が普及し、手紙はかつてのような地位を追われていく。電灯や電波塔の建設にそうした時代の転換をみながら、本作はある姉と妹の物語を紡いでいく。

 時代が変化するように、人もまた変化していく。だいいち『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の基幹にあるのが、主人公ヴァイオレットの身体の変化である。即ち少女兵としてのみ存在し得る身体から、自動手記人形=媒介者としての身体へと。「外伝」では、ヒロインのイザベラ・ヨークの変容が描かれていく。何者でもなかった貧民から一転、貴族としての地位を与えられ、その階級、ジェンダーに相応しい存在へと規律=訓練されていく。「僕」は「私」になる。しかし、その過程において――ヴァイオレットとの交流の中で――彼女はひとときだけ、階級に縛られない自由を見出すのだ。その関係は、何となく戦前の女学生のエス文化を思わせるものがある。ヴァイオレットの帰還によって、彼女が再び鉄格子=階級の中に閉ざされるところで一部は終る。

 二部では妹テイラーの物語が展開され、彼女もまた孤児から配達員に生まれ変わっていく。一方は階級に閉ざされていく者として、一方は媒介者として自らを作り替えるのだ。やがて妹は完璧な配達員として、名実共に貴族となった(なってしまった)かつての姉の許に赴くだろう。史実がどうであったかはさておき、本作においては「手紙」に、階級を超える繋がりの希望が仮託されているわけだ。

 二つではほどけてしまいますよ、三つで結えば…とヴァイオレットが言うように、本作ではヴァイオレット(というかベネディクト君なども併せて「郵便社が」と言うべきかもしれないが)が姉妹を媒介する第三の存在となる。実際「外伝」では、一度目はイザベラと、二度目はテイラーと、都合二回もヴァイオレットの入浴シーンを拝めるのだが、勿論単なるサーヴィスではなくて、恐らくは剥き出しの身体同士が出会うということが重要なのだろう。普段は見えない義手と肉体の接合部が、かつて「戦う人」であり、いまは「書く人」となった彼女の痛ましい来歴を窺わせる。なるほど彼女の存在は矛盾だらけかもしれない。しかしそんな二つの人生をその身体に引き受けて生きる彼女だからこそ、異種になってしまった者同士を繋ぎ合せることができるのかもしれない、とも思った。

 あったことをなかったことにすることはできない。これもまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』全体を貫くテーマである。ヴァイオレットが兵士であった過去を捨て去ることができないように、イザベラもまた貴族の道を選んだことを取り消すことはできない。彼女は貴族の妻として生きていくのだろう。しかし、その中でなお、彼女にはエイミーとしてかつて呼ばれた身体が、妹その人の名前を叫べる身体がある。彼女が貴族の衣裳を棄て、再びエイミーとしての身体を取り戻す瞬間は美しい。不可逆の変容の中にあってなお、人は手紙によって、自己表現によって、再生の機を見出すことができるのだ。その意味で、本作は表現による再生を、分断の超克を、どこまでも素直に歌い上げた作品であろう。確かにそのような理想は、今や大時代的なものとなりつつあるかもしれない。しかし、だからこそと言うべきか、今そのメッセージが確かに届けられたことに、胸を打たれるほかはない。

 なお、エンドクレジットで席を立つことを無闇に非難する風潮は私は嫌いなのだが(いつ出入りしようが客の自由だろうと思う)、本作に関してはやはり最後の最後まで観るべきだろう。本作を観た者なら、新作の予告に附された「鋭意制作中」の言葉に、きっと万感の敬意を抱かずにはいられないからだ。何年でも待つから、焦らずゆっくりと再生の道を歩んでいってほしいと思う。

 

 

六地蔵にて

 

 どういうわけか七月以降は心身ともに絶不調だった。一日中鬱々としてベッドから出られなかったり、かと思えば理由もなく興奮状態になって一睡もできなかったりした。卒論どころではなかった。

 八月に入ると、流石に落ち着いてきた。身体的に体調を崩すことは多かったが、精神的には、外出が可能そうな状態になんとか復調していた。

 リハビリ(?)を兼ね、京アニ第一スタジオへの献花をしに行った。同じ京都市なのだからちょっとしたお出かけ程度の距離だ。けれども家から一歩も出られない日が続いた私にとっては、これでも結構な冒険だった。二つに割った抗不安薬の錠剤を持って行った。

 こういう日記的な文章を書く機会はこれまでほぼなかったが、印象深い出来事でもあったから、いくらかの不謹慎は承知のうえで、むしろ私的な備忘録として書き記しておこうと思う。

 

 重大事件が起ると、決まって献花台が設けられ、多くの人々が花やらお菓子やらを置いていく。考えてみるとけっこう不思議な習慣である。

 強いて言えば、区切りを付けるため、即ち日常を取り戻すため、という意味合いが強いのかもしれない。事件の衝撃は、人間の生活や感性を、やはりどこかしら変容させてしまう。私自身、事件のあった日からしばらくは、我々の日常が何事もなく続いていることが、なんだか許しがたい不条理のような気がしていた。

 あるいは(これは誤解しないでほしいのだが)むしろ生者の連帯のためではないかとも思える。

 私はルネ・クレマンの『禁じられた遊び』という映画が好きで、いつ見ても落涙してしまうのだが、あの映画がああも人の心を打つのは、弔いが、それを通じて生者同士が繋がっていく儀式として描かれているからだろう。それはミシェルとポーレットに限らず、ポーレットの家族やその隣人一家も同じであり、墓は共同体の尊厳そのものである。そしてそれ故に彼等は争うことになるのだが、これはこの映画のいまひとつの主題たる国家間の戦争の論理にも通ずる。弔いの周囲にはいつも繋がりの意識が、共同体が形成されるのだ。

 

 話を戻す。引き籠もりのような生活を送っていた私は、髪も髭も伸ばしっぱなしで、完全に浮浪者の外見で街を出歩くことになった。駅構内でガラスに映る自分を見て、ようやく自分のみすぼらしさに気づく、イギリス留学中の夏目漱石みたいなありさまだ。風呂と洗濯だけはしていたものの、着ている服もよれよれで、凄まじく清潔感を欠いていた。道を教えていただいた近隣住民の方も、よくこんな不審者に快く対応していただいたものだと思う。

 献花に行くのに、途中まで花を買い忘れていた。近くの花屋は閉店していたので近くのスーパーに立ち寄り、選択したのは530円のカーネーション。当然ながらリボンや包装などの気の利いた装飾もないケチな代物だ。どのぐらいが相場で、どんなものを選択していいかわからなかった。

 

 私は3年も住んで京都の地理に甚だ不案内だったし、聖地巡礼の文化にも馴染みがなかった。旅行に関心が低かったというのも勿論あるが、なによりアニメとして築き上げられた幻想世界が、不用意に現実と接地することでその虚構性をあらわにしてしまうのが嫌だった。あくまで空想に没入していたいタイプなのだ。しかしGoogleマップを頼りに六地蔵駅なる聞き慣れない駅から地上に出ると、たちまちその現実が視界に現れてくる。

 いちおう観光ではなく追悼に来ているわけだから写真撮影は控えたが、山科川の橋の、あの鉄塔のあたり、確か『響け! ユーフォニアム』のOPで映っていた場所じゃなかったっけ。 アニメーションの中で、青春のトラジコメディの象徴として描かれてきたその景色は、そのとき猛暑で蝉も死に絶えていたらしく、がらんと静かだった。

 

    橋を渡ると、なんだか全く違う世界に行くような感じがした。閑静な通りに面する商店には、取材お断りの紙が貼ってあった。

 

 このあたりで生来の方向音痴が足を引っ張り始める。方向音痴はGoogleマップを使おうが何しようが道に迷うのである。暑さで思考が停止していたのか、まっすぐ進んでいるうちに、よくわからない住宅地に出た。時刻は五時を回っていたと思う。

 ひとまず駅までの道を戻ってやり直そうとしていたところ、塀の隙間から、スタジオの背面がちらりと見えた。何だか裏口のようで、そこから入っていいものだろうかと迷っていたら、近くのオタクっぽい黒ジャージの男が「いや間違ってないから、行きたいならさっさと行けよ」的なジェスチャーをしたので、いくらか躊躇いつつ入った。花を持って歩き回る気恥ずかしさに今頃気づいた。

 

 明るい橙色の壁面とどす黒い焼跡のまだらになった建物を見上げた。ニュース番組でたびたび報道されていた通りだったが、いざ剥き出しの現実を目の当たりにすると、やはり打ちのめされる気がした。建物が解体されず、ずっと原形を留めているのがまた痛ましかった。それは逃げ場のない、内に籠もった威力をそのまま刻印していた。

 献花台は見当たらなかった。もう片付けられてしまったかと不安になる。近くの警備員のおじさんにおずおずと尋ねると、親切に場所を教えていただいた。また少し歩いて、ようやく白いテントを見つけた。

 

 人集りができていた。マスコミの人がカメラを向けたり、やってきた人々にインタビューらしき聞き取りをしたりしている。こういう報道姿勢は、特に近年では嫌われる傾向にあるように思うが、少なくともそのときインタビュアー相手に話し込んでいた赤シャツのアニメファンは、そうでもなさそうだった。むしろ積極的に聞いてもらいたがっているように、自らが京アニ作品に受けた感銘について語り続けていた。

 近づくと、警備員らしき男性に「おっ、どうぞどうぞ!」と、妙に明朗な歓迎の身振りで、テントの中へと導き入れていただいた。目の前にはリボン付きの立派な花束が華やかに山をなしているというのに、私の右手に握られていたのはワンコインの貧相なカーネーション。もっとよいものを買っておけばよかったと、そのときやっと恥じた。

 ぎこちない動作で花を手向け、合掌した。後ろにたくさん人が並んでいたので、何か悪いことをしたみたいな早足で、さっさと出た。

 

 近くに置かれていた四冊のメッセージ・ノートのうち一冊を開いた。小学生と思しきファンが、「けいおん!」への愛を書き記した、まるみを帯びた文字が見えた。一行あけて私は書き始めたのだが、緊張していたのか、手の震えがおさまらなかった。なるべく丁寧に書こうとする書き手の意志を裏切って乱雑になっていく筆致で、ユーフォ最高でした、いつまでも待ってます、みたいなことを書いた。

 言及の範囲が限定的過ぎるだろとか、待っていますとかいう言葉から漂ってくるファンのエゴ感とか、いろいろ突っ込みどころがある。途中で書き直そうと思ったけれど、消しゴムは見当たらなかった(あったかもしれない)。ただまあそのときは、信じてもいない死後の世界の幸福を祈るより、生前に作られた作品群への尊敬を以て追悼としたかったのだ。

 

 肩を落として駅への道を戻りつつ、何度か献花台を振り返った。文字通り老若男女が集っていた。そこは確かに無言の連帯の空間であり、哀しみと親密さとが矛盾なく同居する空間だった。死者たちがいかに多くの者たちに愛されてきたか、それを証明するために生者たちが集まっている……献花台とはただ嘆くだけの場所ではないのだ。

 

 もう日は暮れかけていた。橋を戻りながら、夕空に翳りを帯びたあの鉄塔をもう一度眺めやった。ああいったシーンのひとつひとつが、あのスタジオ以外には提供することのできない貴重な体験だったのだと思った。

 むろん、いつまでも待つ、という言葉については責任を持つつもりでいる。たとえ20年かかろうと、それ以上かかろうとも……。未曽有の悲劇に対してファンが示すべき倫理は、忘れないことと待つことの二点をおいて他にあるまい。

『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』感想

(ネタバレに一切配慮していないのでお読みになる際は御注意ください)

 

 大学一回生ぐらいの頃、深夜のバラエティ番組で、名門の吹奏楽部を追ったドキュメンタリー的なコーナーをやっていた記憶を、ふと思い出しました。まずはその話から始めます。

 昨年は潸々たる成績の高校。今年こそは頑張って、去りゆく先輩たちに堂々と花束を渡すんだと意気込む女の子。いやがうえにもテレビ向きの、盛り上がるシチュエーションです。彼女たちは全てを擲って練習に没頭します。記憶が曖昧なんですが、『響け! ユーフォニアム』の劇伴も使われていた気がします。

 ところが現実はアニメのようにはいかず、彼女たちはあっけなく予選落ち。すると、これまで熱っぽく彼女たちの青春を追い続けていた番組は、やにわに冷淡になり始めます。泣き崩れる彼女たちの後ろ姿を手持ちカメラで不躾に撮りながら「彼女たちの夢は叶わなかった……」と素っ気ないナレーションを挟み、ぶつ切れのゴミみたいな編集でそのコーナーは幕を下ろしてしまうのでした。ワイプで映るタレントさんたちが、どう反応していいかわからない的な微妙な表情をしていたのも印象的でした。私は陰キャなので部活などに執心している人間などうっすら見下していたんですが、それでもこの番組を観てしばらくは、そうした報われなさというものについて、あてもない思惟をめぐらしてしまったのを覚えています。

 

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 ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

 本題に入ります。『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』という作品は、ごく大雑把に言えば、〈呼称〉〈闘争〉〈継承〉の三つの主題によって構成されています。

 まず〈呼称〉。人の名前を呼ぶことです。当たり前のことですが、「誓い」ではこのことにひとかたならぬ意味が付与されているわけです。これは冒頭から明らかであり、例えば一年生の月永求は名字で呼ばれることを激しく嫌い、名前で呼ぶように訴えます。同じく一年生の鈴木美玲は「W鈴木」とか「みっちゃん」とかいった呼ばれ方を拒絶し、そんな彼女はどうしても孤立してしまいます。また三年生の加部友恵の呼び方も「加部先輩」から「加部ちゃん先輩」へと移り変わります。その後彼女はある重大な決心をするわけですけれども。

 なぜ〈呼称〉の問題がこれほど重要になるのかと言えば、それは勿論、1年生の加入による彼女たちの関係性の変化があるからです。これはこの映画のひとつのメインプロットと言ってもよいでしょう。呼び方を決めるというのは他人との距離感を測ることでもありますから。いくら実力主義って言ったって、人の集まりなのだからこのへんは避けて通れない。

 それにしても、美玲をめぐるエピソードは興味深いものがあります。美玲は実力があるので、自主練なんかせずにさっさと帰宅してしまいます。一方で同じく鈴木姓のさつきは自主練に積極的で、先輩たちをどんどん味方につけていく。つまり自主練というものが、文字通り技術向上のための自主的な訓練というより、むしろ周囲と溶け込むための儀礼的習慣として捉えられているわけです。これは結構鋭い観察だと思います。後の努力と結果をめぐる問題にも繋がるところですね。

 久美子は指導者として、この問題を解決しなければなりません。それは次期会長就任へのひとつのイニシエーションでもあったでしょう。ようやく〈呼称〉の問題を乗り越えたとき――月永求が名前で呼ばれるようになり、美玲が「みっちゃん」の呼称を受け容れたとき――、次なる主題、〈闘争〉の主題が本格的に顔を覗かせ始めます。

 

 〈闘争〉というのはいつも勝者と敗者を生みます。報われた努力があり、報われない鍛錬がある。久美子たち北宇治は、まあ全国大会で負けはしましたけれども、概ね勝者としての物語を歩んだと言ってよいでしょう。しかし、もしかしたら負けていたかもしれない。もしそうなっていたら……。

 本作初登場の一年生、久石奏の主張は単純なものです。先輩たちが麗奈のソロを認めたのは、結果が伴ったから。もし全国に行けていなかったらどうでしょう。高坂先輩の立場はどうなっていたのかしら。現に私はそうだった。実力主義なんて欺瞞。……言われてみれば当たり前ですが、実力主義イデオロギーというのは将来的にしかるべき結果を出すという期待以外には正当性の根拠を持ちえません。それに引き替え、かつて北宇治高校吹奏楽部を支配していた縁故主義は強い。〈呼称〉の議論で述べた通りですが、組織は人間の諸関係の集合によって形成されるのですから、これは当然です。そして何より、このことを指摘してみせる彼女のリアリストとしての不敵な冷笑ぶり。彼女の存在はこの映画の白眉でしょう。

 しかし、そんなのは所詮、小さな問題に拘泥しているに過ぎないとも言えます。もっと他に大事なことがあるのではないのか。……久美子の説諭は、要はこういうことを言っているのだろうと私は思います。

 再び1期の再オーディションの場面に立ち返ってみましょう。そこで露呈されるのは実力主義の行き詰まりです。多数決で決めるというのは、制度的には、縁故主義で決めると言っているのと同じことです(無論、滝先生は彼女たちにそうではない何かを期待しているわけですが)。結果的にはほとんどの者が態度を決めかねて、この勝負は決着がつきません。実力主義縁故主義というイデオロギー対立それ自体が行き詰まりを露呈したとき、香織先輩の「吹けないです」の一言が出てくるわけです。そして香織先輩が「上手ですね」と言われて「上手じゃなくて、好きなの」と答える人間であることが、直後のシーンに示されます。

 つまり「好き」だから譲ったわけです。だから、そこに描かれているのは卑小なイデオロギーの勝った負けたではなく、それを越えたところにある良い音への無償の肯定であり、彼女たちの音楽が何かの従属物であることをやめる瞬間です。久美子はそれを目の当たりにしたが故に、次の回で「うまくなりたい」と叫ぶことになります。良い音楽をひたむきに欲望し続ける今・ここの意志。それはコンペティションとしての〈闘争〉の中にありながら、それを越えて彼女たちを突き動かす強烈な希求です。久美子は一年間の〈闘争〉を経て、それをはっきりと掴んでいる。だから彼女は奏のリアリズムに対峙することができたわけです。このあたり、大音量の劇伴に加えて雨まで降らせるのでやはり若干の演出過剰感があります*1けれども、やはり素晴らしいと言わなければならないでしょう。

 〈継承〉はもう言うまでもないですね。エンドロール前のシーン。頑張ったって意味なんかなかったんだと相変わらずシニカルな言葉を並べる奏に、久美子は悔しいかと聞く。奏は悔しいと言って遂に涙します。久美子から奏に継承されるのは悔しさです。その後久美子が部長になったことを示唆する場面を以て〈継承〉の主題は再確認され、この映画は幕を下ろす。そこには無論、部長という〈呼称〉の獲得があり、奏の涙が示唆する新しい〈闘争〉の予感が描き込まれています。

 

 ……こう言っておいて何ですが、正直に申し上げれば、「誓い」はひとつの作品としては、構成を欠いた散漫な印象の拭えない映画です。それにもかかわらず私が感銘を受けたのは、全く個人的な理由からです。まず、ごく単純にこのシリーズのキャラクターたちの物語にもう一度立ち会えたことが嬉しかった。みぞれと希美の音楽を介した美しい交歓を見られたこと。あがた祭りで秀一と一緒にはしゃぐ久美子を見られたこと。思えば満面の笑顔を見せることが少ないキャラクターだったように思いますし、久美子。

 それにこの映画は、私の中でずっとひっかかっていた報われない鍛錬というものに、単なる慰めではなかろう何かを見出させてくれたように思います。私は「誓い」を、そうした私的な思い入れ抜きに見ることができません。

 

*1:これは近年京アニの宿痾ともいうべきところですね。

『true tears』の何がすごいのか

 『true tears』が好きです。P.A.Works作品どころか、これまでに見た全てのアニメ(劇場用アニメ含む)の中でも、いちばん好きと言い切れますし、恐らく今後どのようなアニメ作品を目にしても、ディズニーやピクサーがいかにグローバルな高度映像技術と大資本を投下しようとも、私の中でこの「いちばん」が脅かされることはまずないだろうとも思っています。

 もっとも、これはあくまで「いちばん好き」なのであり、「いちばん優れている」とは必ずしも思っていません。作画は全編通してハイレベルですが、同世代の他のアニメにももっと上はいます。主人公の高校生眞一郎が、幼馴染で同棲中の湯浅比呂美(実の妹ではないかとの疑惑浮上中)と学校で知り合った石動乃絵のふたりから好意を寄せられフラフラ、というプロットも、それほど特殊なものではなく、むしろゼロ年代にありふれていた青春ラブストーリーの一類型として受け取られるでしょう。また後半の物語展開はやや混乱が見受けられ、その突飛とも言える演出も含めて、どこかしらいびつな印象を見る者に与えます。でもそれは、真に考え抜かれた作品だけが持ちうるいびつさです。

 

 さじゃあこの作品の何が凄いのかといえば、ひとことでいえば詩的であるということです。詩的であるといっても色々あるのですが、たとえば雪とか鶏とか木の実とか、我々が見慣れた様々な物事を、凝りに凝った語り口で、作品世界の中に描き出そうとしたことが挙げられます。

 こんな抽象的な文句ではよくわかりませんね。ポール・ヴァレリーは「歩行と舞踏」という喩えで散文と詩の違いを表現しています。散文=歩行は移動のためになされるものであり、読者を論理的を対象へと導くのに対して、詩=舞踏は踊ることが目的であり、つまりは言葉を操ることそれ自体の美しさをこそ追求しようとする営みであると。

 通常、雪だのマフラーだのの細部は、予め設計された物語の進行を円滑にし、あるいは装飾するために配置されるものです。しかし『true tears』の場合、むしろそうした小道具、細部それ自体が、様々な意味性や寓意を宿し、それらの絡み合いや連なりに導かれて物語が描き出されるというか……これもたいがい抽象的な話ですが。

 

 まあ具体的な表象に目を向けてみましょう。たとえば『true tears』において重要なモチーフのひとつとなるのが「雪」なのですが、これは乃絵の暗喩として描かれるんですね。「のえがすきだ」という眞一郎の告白は雪の上に書かれますし、「雪」は空から落下するものなので、乃絵が木から落ちてくる描写と重ね合わせることもできます。加えて乃絵は4話において、(眞一郎の心象風景として)「雪を降らせる天使」として表象されています。天使(的な存在)が地上に墜ちてくるわけですから、これは一種の堕天、乃絵の天上的なイノセンスの喪失を含意しているかにも見えます。

 

 

 一方で比呂美にとって「雪」は、義母との確執の象徴であり、恋敵の象徴です。彼女にとっては「雪」は自らを眞一郎から遠ざける呪いとなります。義母に眞一郎との血縁関係を仄めかされた日から、今まで好きだった雪が嫌いになったと語る比呂美に、石動純(諸事情により好きでもないのに付き合うことになったイケメン。乃絵の兄)は「好きなものが好きでいられなくなるって、キツいよな」と告げますが、では純が「好きでいられなくなる」ものとは……という感じで、これは後々の展開を暗示しています。

 8話での比呂美の「雪が降っていない街(に連れて行って欲しい)」という暗喩的な台詞は、乃絵からの――また義母からの――、自らを抑圧する存在たちからの逃走として捉えられます。その後バイクは転倒・炎上し、この逃走劇は失敗に終わるのですが。でもここで重要なのは「火」が「雪」を溶かすということです。このイメージに導かれて、その後の比呂美は義母と和解し、眞一郎に急接近しはじめ、恋人の地位を乃絵から奪い取ってしまう。また「雪」は融ければ水になるので、最後に乃絵が涙を流すのも、「雪解け」のイメージで捉えることができるかもしれません。

  

 「雪」というありふれた表象に、様々な意味が宿る。長くなるのでここでは書きませんが、鶏にも木の実にも同じことが言えます。日常的な事物を詩的なイメージへと変容させ、それらが織物のように交錯していく――『true tears』の素晴らしさとは、こういう所にあるのだろうと思います。

アニメ版『君の膵臓をたべたい』感想

 

 『君の膵臓をたべたい』観に行ったので以下感想(あと考察もどき)を述べます。いつもの如くネタバレにはお構いなしなので要注意。

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 © 住野よる双葉社  © 君の膵臓をたべたい アニメフィルムパートナーズ

https://youtu.be/zp162UDrtyA

 

 本作は住野よる氏による同名の青春小説をアニメ化したもの。既に実写映画が昨年に公開されており、二回目の映画化となります。大人気ですね。*1

 やはりデートムービーということなのか、劇場にはいかにもリア充っぽいカップルが沢山来ていて、中盤からずっと泣いてる女の子がいたりと、陰キャアニメオタクとしてはかなりアウェー感がありました。上映終了後は彼らリア充集団から「良かったね」とか「泣いちゃった」みたいな感想がぽつぽつ聞こえてきて、なかなか好意的な感じの反応だったように思います。

 

 さて映画の内容。根暗男子の「僕」が、病院で日記を拾うところから物語は幕を開けます。その日記(「共病文庫」と呼ばれる)の持ち主はクラスの人気者、山内桜良。彼女は「僕」にこう告げます――肝臓の病気により、自分はもう長くないと。そして「僕」は、半分なし崩し的に彼女の「死ぬ前にやりたいこと」に付き合わされることになる……というのがあらすじ。

 既にお分かりかと思いますが、この映画、ここまでの筋立てだけ見ると、何ともベタベタの難病ものメロドラマとも言えます。『余命一ヶ月の花嫁』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかの系譜。

 しかしながら、作者ももちろんこの点には自覚的です。今作では大きく分けて三つの「ひねり」を加えることによって、既存の恋愛悲劇の類型性を逸脱しようとする試みがなされています。本記事では、この点について注目してみようと思います。

 

 まず一つ、非常に外形的なレベルの話ですが、桜良の死因が実は病気ではないということです。彼女は限られた命を全うすることさえできない。これはかなり衝撃的かつ虚無的な展開で、こうした筋立てを採用することには、かなりの勇気が必要だったと思います。受け手の意表を突くにしても、「病気が予想外に早く進行して死ぬ」とか「実は犯人はあの元カレ」とか、色々他にやりようはあったはずです。しかしこの物語においては、そうした「死」に対する物語的な意味付けや虚飾の一切を拒絶して、ただ「誰にでもあった可能性」としてそれを描こうとする。この展開に対する解釈は色々あるでしょうが、僕としては「死」の、普遍的かつアンチクライマックスな性質をこそ描きたかったのかな、という気がしました。

 とはいえ(実写映画のときも思いましたが)この展開をあまり良いとは思えません。伏線があるとはいえ、あまりにも偶然性に依拠しすぎだと思うからです。たまたまあの待ち合わせの日に、あのメールを送ったタイミングで、たまたま通り魔がやって来て死ぬ、という不運な「偶然」。筆者の家に突然美少女が押しかけてきたり、気紛れで買った宝くじ1枚で3億円ゲットしたりするのと同程度の「偶然」でしょう。

 

 この辺は色々言いたいことがあるんですが、まあそれは置いといて、二つ目。「僕」と桜良の関係を、あくまで恋愛関係として描かなかった点です。

 このことは、あの雨のシーンで「僕」が初めて年相応の性衝動をあらわにするあの場面によくあらわれています。桜良は面白半分に「僕」を誘惑しますが、冷静さを欠いた「僕」が桜良を押し倒したとき、彼女は泣いて嫌がってしまう。それで「僕」は我に返り、彼女の家から逃げ出す――この危うさのたちこめるシークエンスは映像としても秀逸だなと思うのですが(あと「僕」の童貞丸出しの感じが面白い)、何が「危うい」かって、あの場面こそ、二人の関係が変質してしまうか否かの、ぎりぎりの分水嶺だったからです。桜良はこの無二の関係の「恋愛」への変貌をこそ畏れ拒絶したとも言えるわけです。

 こういう描き方は、とても良かったと思います。「僕」が彼女から受け取ったのは、他者との交わりという人生観であり、ある意味では桜良という人間の生そのものであって、それは「恋」などというものに矮小化されるべきものではないからです。

 

 三つ目。これこそ最も重要なポイントだと思うのですが、「恭子」というキャラの存在が挙げられます。彼女は桜良の親友、病気がちの桜良をいつも気にかけて、彼女にくっついている(ように見える)「僕」をひどく毛嫌いしています。ですが恭子は、桜良がもうすぐ死ぬことを知らない。繊細な彼女が心配しすぎるのを心配して(変な日本語)桜良が教えてあげないからです。

 桜良の死後、「僕」から初めて「共病文庫」を手渡された恭子は、その時初めて彼女の余命のことを知り、涙を流しながら「僕」を厳しく詰ります。――教えてくれていれば、部活も学校も辞めて、ずっと桜良の傍に居たのに。

 けれども、まさしく恭子がそういう人間であったからこそ、桜良は病気のことを教えるわけにはいかなかったのです。お互いのことをあまりに深く想うがゆえに、残酷な真実を最期まで共有することができない。何度観ても切なく美しい関係だと思います。

 

 しかし大事なのはここからです。前述したとおり「僕」と恭子は深く断絶し、対立する関係として描かれています。一方で、共通の友人である桜良は、二人に「仲良し」であってほしいと語ります。そして彼女の死後、「僕」はその遺志を実現すべく恭子を追いかけ、「許してほしい」「いつか友達になってほしい」と呼びかける。エンドロールの後、恭子が「僕」にガムを寄越す(一度でもこの物語に触れた方なら言うまでもないと思いますが、「ガムの手渡し」はこの物語で他者との繋がりを示す機能を帯びています)場面を以て物語は締め括られる……

 ここから見えてくるのは、実はこの作品の主題は「僕と恭子」の関係にこそあるのではないか、ということです。性別も性格もクラスに於ける立ち位置も何もかも違う、徹底的な他者としての両者。その二人が、桜良という死者の存在を介して「仲良し」になる――そのとき、この映画は、この手のメロドラマが陥りがちだった恋愛至上主義や「君と僕」の閉鎖的な関係の域を越えて、より普遍的な他者との交流を物語ることに成功しています。

 兎にも角にも、「恭子」というこのうえなく魅力的な少女。彼女の存在こそが、この映画を感動作たらしめていると思います。

 

 色々書きましたが、総体的には結構楽しめた映画でした。何より「僕」と桜良の過ごした時間の幸福を、観客も共感、共有できるような説得力がちゃんとあった気がします。ときに漫才みたいな2人の掛け合いは聞いていて楽しかったですし、あのホテルでのドキドキ感と残酷さの入り交じった感じも好きでしたし。まあ、前述したような不満点はやはりありますし、『星の王子さま』になぞらえた幻想的なシークエンスはアニメならではの演出と言えるかも知れませんが、ちょっとしつこく感じてしまったり、「傑作!」とはなかなか言いにくい感じではあるのですが。

 

 あと、個人的な好みを言えばキャラデザがすごく良かったです。桜良も恭子も超かわいい。主人公の「僕」はネクラ感とイケメン感がうまい具合にブレンドされた感じ。

 

*1: 実写映画版も一応観ましたが、こちらは正直にいえば「うーん……」という感じでした。12年後に高校教師になった主人公が、教え子に過去を語るという形式を取っているのですが、これがどうもしっくりこなかった気がします。もちろん悪い映画ではないですが。

映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

 

 映画『ペンギン・ハイウェイ』観ました。以下感想を書きますが、例によってネタバレだらけなのでまだ観てない方は注意してください。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 この映画は森見登美彦の同名小説をスタジオコロリド(ごめんなさい、この映画観るまで名前すら知らなかった……)がアニメ映画化したもの。原作からしてビジュアル的に面白い場面も多く「これはアニメ映画向きの作品なんじゃね?」という感はありましたが、まあ結論から言うと限りなく理想に近いアニメ化で僕としては大満足でした。キャラデザ、声優さんの演技、美術、演出、劇伴、どれもきっちり決まっていて、小説の映像化にありがちなコレジャナイ感がまったくなく、原作を読んだときの感動をそのまま思い返しながら観ることができました。

 

 さて映画の内容。

 主人公は、小学四年生の男の子にしては異常なほどお利口さんな理系キャラ・アオヤマくん。彼は恋という観念をまだ知りませんが、通っている歯科医院の「お姉さん」のことが気になって仕方がありません。「結婚する相手をもう決めてしまった」とか「親しくお付き合いしている」とか、何かと背伸びしたモノローグがいちいちかわいい。

 そんな彼が、海のない町でペンギンを見掛けたところからこの映画は始まります。一体、ペンギンたちはどこから来て、どこへ消えたのか。町ではちょっとした騒ぎになり、アオヤマくんは友達のウチダくんを引き連れてペンギン研究を始めます。しかし、さらに不思議なことに、ある日アオヤマくんは「お姉さん」が実はペンギンの謎と深く関わっていることに気付いてしまう……というのが導入部。

 理系少年アオヤマくんのかわいさは勿論ですが、この「お姉さん」というキャラ(名前は最後まで明かされません)もまた素晴らしい。無邪気で自由奔放で優しくて、しかし何やら不思議な力を秘めたミステリアスな女性――彼女はコーラの缶をペンギンに変身させて「この謎を解いてごらん」とアオヤマくんを誘惑します。あのシーン、アオヤマくんの歯を引っこ抜くという描写と併せてふたつのイニシエーションが重なり合うシーンだよなあ、みたいなことも考えましたが、パンフレットを読むと大森望氏が既に全く同じ指摘をしていました。何にせよ非常に鮮やかなシーンでしたね。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 それから〈海〉の発見、ウチダくんやハマモトさんとのワクワクに満ちた実験と観察の日々、ジャバウォックの出現と町に迫る危機、アオヤマくんがお姉さんの部屋を訪れる場面の静謐な美しさ……こうして書いていくとあらすじ全部書くことになってしまいそうですが。

 

 しかし何と言っても凄まじいのがクライマックス。怒濤のように押し寄せる大量のペンギン、〈海〉への突入。アニメーションならではの魅力に満ちた動的なシークエンスで盛り上がりを演出し、そして〈海〉の中は、打って変わって沈黙の廃墟が広がり……制作陣の力の入れようが直に伝わってくる、圧巻の映像です。

 何が素晴らしいかって、視覚的な快楽は勿論なのですが、それ以上に、この場面こそ「生」と「死」、歓びと哀しみが混交して奔流する、あらゆる意味でこの映画を代表するシーンだからです。

 というのも、ペンギンも「お姉さん」も、これから消えてしまう運命にあるからです。この物語と「死」という問題の関連については後述しますが、ペンギンと「お姉さん」をめぐる謎の真相は、残酷といえばあまりにも残酷なものです。

 しかし未練を断ち切った「お姉さん」は、そんな葬列をカーニバルのように賑やかに演出してみせます。彼女の手によって次々とペンギンが生まれは町に溢れ出していく。「生まれる/死ぬ」という無情な真理を、ああも爽やかな祝福として描き出したという点において、あの場面はこの上なく感動的でした。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 あ、あとラストシーンは原作とちょっと違うんですが、あれも映像作品として大正解としか言いようのない、見事な結末だったと思います。そしてその直後に流れる宇多田ヒカルの「Good night」……あのとき、多分人生で初めて映画館で泣く体験をしました。とにかく素晴らしかったです。

 

 

 褒め言葉ばかりでも面白くないので、ここからはちょっとした考察(という名のポエム)。

 これは謎を解き明かさんとして世界の外部へと手を伸ばしていく物語でもありますが、同時に自己発見の物語でもあります。

 たとえば恋。なぜアオヤマくんは「お姉さん」を見ていると幸せな気持ちになるのか。他の人と「お姉さん」は何が違うのか。恋という謎――アオヤマくんが己のうちに抱いた謎の自覚を、原作では以下のように叙述しています。きわめて美しい文章なので、ちょっと長めに引用しておきます。

 

ぼくはかつてお姉さんの寝顔を見つめながら、何故お姉さんの顔はこういうふうにできあがったのだろうと考えたことがあった。それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光る髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。ぼくは、太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。ぼくが男があるから、ぼくの細胞の中の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。でもぼくは仮説を立てたいのでもないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川文庫・2012年)372-373頁 

 またこの作品では、最後まではっきり解き明かされない謎があります。即ち「お姉さん」はどこから来て、どこへ行ったのか。これは将来、アオヤマくん自身が解決するであろう謎として残り続けます。

 しかし、それは「お姉さん」だけが有する謎ではありません。我々ヒト自体、どこから生まれてどこに行くのやら、ちっともわからない。「生と死」は人類最大の謎であり続けるしょう。

 作中、アオヤマくんの妹が「お母さんが死んじゃう」と言って彼に泣きつくシーンがあります。勿論、母親が難病に罹っているとかそういうわけではなく、単に普遍的な問題として「人はいつか死ぬ」ということに気付いてしまった、というだけのことなのですが、アオヤマくんは妹をうまく慰めてあげることができません。

 

でも、たとえお腹がいっぱいであっても、何も言えなかったかもしれない。「生き物はいつか死ぬ」ということをいくら説明しても、彼女は納得しないということが、ぼくにはわかっていた。なぜならぼくも、あの夜にそんな説明では納得しなかったと思うからだ。

同上・272-273頁

 何気ない場面ですが、これは単に「お姉さん」との別離の伏線というだけに留まらない、この作品の主題に直接関わる重要な機能を帯びたシーンだと思います。「お姉さん」という謎は、生と死という謎とも繋がっていくわけです。

 アニメ版だとカットされていますが、原作ではこの「生と死」をめぐるテーマはもう少し掘り下げられています。あえて引用しませんが、ウチダくんが自分の死生観を語る場面なんかも面白いので、このへんは是非原作も読んでほしいですね。

 

 総合すると、この作品において、世界の成り立ちを巡る謎と、己自身が抱える謎は、決して別なことではなくて、むしろそのふたつの謎が重なり合うところにこそ、この一夏の物語が存在し得たと言えるんじゃないかと。

 アオヤマくんはペンギンと〈海〉からなる世界の謎を解き明かそうとしますが、その謎は図らずも「お姉さん」という謎へ、そして自らの恋心という謎へと繋がっていきます。逆に「お姉さん」にとっては、アオヤマくんが目指す研究に付き合うことによって、逆に自らの本質を発見してしまうんですね。そしてそれらの謎に底流する「生と死」という根源的な難問。――世界の外を発見しようとする彼らの旅は、同時に彼ら自身が抱える謎へと踏み入っていく旅でもあったとは言えないでしょうか。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 世界は謎に満ちている。このことを、こんなにも楽しくユーモラスな冒険譚として、ちょっと哲学的な思索の物語として、かつ残酷で切ない初恋の物語として描き出した本作。今年、この上なく夏映画にふさわしい作品だと思います。

 

 

※本記事の画像は全て『ペンギン・ハイウェイスペシャルトレーラー(https://youtu.be/tVhy2LnbL1A)より。