『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想

 

(ネタバレ注意)

 

youtu.be

 

 

 

 MOVIX京都で「外伝」を観、そこで「鋭意制作中」の5文字を目にしてから、もう1年以上になる。重なる不運をこえて、京都アニメーションは「劇場版」を世に送った。代筆屋の少女をめぐる物語に、ようやく終止符が打たれたわけだ。

 本作はヴァイオレットのかつての依頼主の娘アン・マグノリアのさらに孫・デイジーを語り手として設定している。つまりすべて終った地平から、回想形式で語られているわけだ。しかもそこで回想されるヴァイオレットの物語は、さらにそれ以前の戦争の記憶に繋がるのであり、本作は三重の時間構造をとることになる。上官ギルベルトに愛の言葉を教わり、自動書記人形として多くの言葉を語り、やがて語られる側になるヴァイオレット。時を超えた言葉の繋がりが描き出される。

 

 本作において時を象徴するイメージが電波塔である。電話の普及により、徐々に手紙はかつての地位を失っていく。しかし郵便社の人々は、その商売敵を「いけ好かない」とは言いつつも、淡々と時代の変化を受け入れている。中盤、彼らは依頼主の少年ユリスの望みを叶えるため、この新しいテクノロジーを頼ることになる。メディアが変わっても、言葉を通じ合わせることの歓びは変わらない。

 

 本作では、死んだと思われていたギルベルトが実は生き延びていて、辺鄙な小島でひっそり暮らしていたという衝撃的な事実が判明する。そこは戦争の傷を色濃く残す島であり、先の戦争で男たちはみんな死んでいる。ギルベルトは希少な男性労働力として貢献しているようだ。それは彼なりの贖罪行為でもあるのだろう。彼はヴァイオレットに対しても強い罪悪感を持ち、せっかく島にやってきた彼女と会おうともしない。彼は戦争の時間に今も縛りつけられているのだ。そんな彼が逡巡の末にヴァイオレットと出会い直し、新しい時を一緒に生き始める――これが本作の主筋となる。

 しかしながら、こんなおとぎ話的なハッピーエンドが必ずしも必要だったのか、という疑問はある。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは、戦争と上官が世界のすべてだった少女が、様々な人々と時間を共有する中で新たな自己を形成していくという物語だったのではないのか。そこには「大切な人を失っても、なお……」という翳りを帯びた生への意思が通底していた。それゆえ、ギルベルトとくっついてめでたしめでたしということが本当に着地点でよいのか、締め括りとして相応しいのか、という気はどうしてもしてしまう。

 しかし本作の作り手たちは、あくまでヴァイオレットに目一杯の幸福を与えてやることにこだわった。それが親心というものだろう。実際、この文句なしのハッピーエンドには、やっぱり涙せざるを得ない。愛する人とついに相対し、嗚咽の中で必死に言葉を紡ごうとしながら、何も言えないヴァイオレット。これまで数え切れないほどの言葉を紡ぎながら、肝心なときに言葉が出てこないのだ。そして、そんな彼女を片腕で抱き留めるギルベルト。「彼女が報われて良かった」と思うと同時に「ああ、本当に終わるんだな」という切なさも感じる場面だ。最上の結末に至ってしまった彼女に、もはや物語られるべきものは残っていない。時間に呑まれてすべてが過去になってしまった後、デイジーは彼女をめぐるわずかな後日談を語り、家族に向けて手紙を書く。3つの時間はひとつに閉じ、映画は終る。TV版が放送されてから2年半、この物語を最後まで観ることができてよかった、と今はただ思う。

 

 なお、本作で非常に重要な役割を果たすことになるのが郵便社の社長、ホッジンズである。ヴァイオレットの成長に感じ入り、彼女の結婚を意識して気を揉み、「子供ができるなら息子がいい。娘じゃ身が持たない」とぼやいてみせる彼は、世の父親そのもの。そう、本作はいわば疑似的な「娘の嫁入り」物語でもあるのだ。

 電波塔の完成を祝う花火を見つめながら、ホッジンズはふと彼女の不在に気づく。祝福と寂寥の入り混じった表情を浮かべてひとつの時間の終局を見届ける彼の姿には、作り手の、そして観客の心情が、ささやかに織り込まれているように思われてならない。

 

 

 

リベラル版百田尚樹、中村文則についてあえて語る

 書店に行く人なら、誰でも御存知だろう。「中村文則」という名前を記され、百田尚樹の左隣あたりに平積みされている妙に分厚い書物を。「光と闇」とか「絶対的な悪」とか「生きている確率は4パーセント」とか、三流邦画みたいな大仰なフレーズが帯にてんこ盛りになっているあれだ。

 この人は純文学クラスターの中では抜群の売れっ子作家だし、現在、新潮文学賞の選考委員を務めており(大半の応募作は少なくともこいつよりはハイレベルなんじゃないだろうか)、文壇の中枢に見事に収まっている。文芸誌の批評欄はとっくに馴れ合い&翼賛体制に入っており、その職責に見合う批判はまったくなされていない。昨今の末期的な政治風土を連想させる。

 タイトルから察していただけるかと思うが僕はこの作家が死ぬほど嫌いだ。以下にその理由を述べる。なお「嫌い嫌いも好きのうち」とか「愛ゆえの批判」とかそういうアイロニーは、ここにはまったくないことを予め明記しておく。

 

作文能力安倍晋三以下

 単刀直入に言うべきだろう。この作家が駄目なのはまず文章、日本語だ。

 男は五十代に見える。着ているスーツは安くはないが、特別に高いものでもない。靴も、時計も、趣味は悪くないが、特別によいとも言えない。顔は醜くはないが、決して女を惹きつけるものではない。

  男は携帯電話を切り、気だるそうに視線を斜めに向ける。そこには三十 代くらいの男が いる。その男は趣味のいいスーツを着、パソコンの画面 を見つめている。目が大きく、眉も奇麗に整えられ、比較的女を惹きつける 外見をしている。(『教団X』集英社2015年)

 初期の山田悠介か?

 彼の文章の問題は「不正確」の一点に尽きる。「雑」と言い換えてもいい。「五十代の男」についても「三十代の男」についても、読んでも何もわからないのである。「趣味は悪くないが、特別によいとも言えない」って何?

 これだけ短い文章中に反復される「女を惹きつける 」なるレトリックの意味不明さにも注目したい。これ、どういう外見なんだ。言うまでもないことだが、モテるルックスにも種類があり、年代や文化圏によっても違ってくる。つまりこんな文章は、何も言っていないのと同じことである。編集者は本当にちゃんと仕事をしているのか非常に疑問に思う。なおフランス書院的なおぞましい官能描写については、なんかもう「引用するのも嫌」としか言いようがないので、各自図書館などで参照して頂きたい。

 解説文は小説より多少はマシだが、まあ似たようなもんである。

 社会の『普通』を揺るがす作品を書き続けている村田沙耶香という存在は、僕にとって、とても重要で特別な存在だったりする。天然の爆発力のように見え、とても巧みだったりする。非常に希有な才能でもある。こういう作家が、同じ時代にいて本当に良かったと、僕はもうずっと思っている。(村田沙耶香コンビニ人間』文春文庫2018年)

 出来の悪い大学生が〆切に追われて書いた水増しレポートみたいな文章だなこれ。これまた「重要」とか「特別」とか抽象的な語が乱発されているばかりで、文章がまともな論理を組織していない。ついで言えば、この何の意味も配慮もない「ったり」という言い回しが、セーターにくっついた大量の御飯粒のような不潔感を抱かせる。「重要で特別な存在である」「とても巧みだ」では何故駄目なのか。

 なお、彼の文章には絶望的なまでにユーモアのセンスがない(たまにギャグらしき何かが出てくることもあるが、その滑り方がただただ痛ましいだけ)のだが、以下のような失笑を誘うくだりもあり、索漠とした読書の中で一服の清涼剤になってくれる。敵国の女性兵士が死を覚悟して、さして親しくもない主人公にいきなりキスをせがむというギャグシーンである。

「……矢崎」アルファの目がうっすら開き、呟くように言う。

「キスして、……くれないか」

「え?」

 アルファが弱々しく笑みを浮かべている。

「私は、ずっと、銃を持って、……暮らしていた。……ヨマ教の、私の宗派は、婚前交渉を、禁止されている。……だから、そういう、経験がない。……幼少の頃の、その片思いだけだ」

 矢崎はアルファを抱き起こし、キスをする。一度唇を離した後も、矢崎はもう一度キスをする。矢崎とアルファの目に涙が滲んでいく。

「……これが、恋愛というものか」

 アルファが矢崎を見つめて微笑む。

「……いいものだな」(『R帝国』中央公論新社2017年)

 無論、文章のうまい下手というのは一律的な基準で評価できるものではないし、それだけで文芸作品の価値が決まるわけではない。ただこいつの場合は下手さ加減が論外すぎて、まともに読む気になれないのである。 

 

メロドラマと政治

 男は児童虐待のトラウマで希志念慮、女は流産で不感症。芥川賞受賞作『土の中の子供』は、こうしたメロドラマ的設定がメロドラマ的な文章でメロドラマ的に展開していく、ただそれだけの作品である。これでも彼の本の中では相当マシな部類なのだが。受賞に反対した村上龍は、選評で以下のように述べている。

  虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない。(中略)『土の中の子供』は、そういう文学的な「畏れ」と「困難さ」を無視して書かれている。深刻さを単になぞったもので、痛みも怖さもない。そういう作品の受賞は、虐待やトラウマやPTSDの現実をさらにワイドショー的に陳腐化するという負の側面もあり、わたしは反対した。(『文藝春秋』2005年9月号)

文藝春秋

  これは、彼の小説のほぼすべてに該当する指摘と言える。ここでの「虐待」が、『掏摸』や『悪と仮面のルール』(このタイトルセンスの不在ぶり)では何かしら巨悪の「陰謀」に、『教団X』では「カルト」と「テロ」に、『R帝国』では「戦争」と「独裁」に、どんどんエスカレートしていったわけである。いや、もっとはっきり言えば、通俗的で刺激的な題材に次から次へと飛びついていったわけだ。そうした題材の数々がそれぞれに孕む「痛み」や「怖さ」は、そこではまったく無視され続けている。そんなことにかかずらっていたら、善悪二元論的な世界観が崩れてしまうからだ。

 メロドラマは極端さを要請する。正義と悪、卑賤と高貴、愛と憎しみ、希望と絶望……誇張されたコントラストで、メロドラマは物語にどぎつい精彩を与え、読者の期待に応えようとする。中村が何故か近頃目の敵にしている新海誠の『君の名は。』は、都会と地方、生と死、ティーンエイジャーの恋愛と宇宙規模の事象という極端な対照性を最大限に利用して見る者を惹きつける、模範的メロドラマである。

 中村の小説に出てくる「悪」も、この力学に従って、どんどん大規模化、大仰化していった。「銃」を手にとった青年の心理から、国家的テロへと。一方、作中にあって中村の考える「正義」が投影された人物は、そこに何の陰影も人格的深みもない平坦な「賢さ」「美しさ」の記号としてのみ存在し、その崇高さを周囲の「愚か」で「醜い」人間との対照でさらに際立たせるという構造が無批判に採用されていくことになる。

 ただ中村は、自分をメロドラマ作家だと自覚してはいないだろう。「リベラル」で「反体制」の、勇気ある政治的作家だと自ら任じている筈である。そのため、彼の小説の登場人物たちは愚にもつかない政治分析や自己啓発的なテツガクの開陳で紙面を埋め尽くすことになり、まともな読者から読む意欲を喪失させてしまう。ここに、職人的なメロドラマ作家である新海誠との決定的な差がある。

 言うまでもないだろうが、小説に政治的言説を書くのは駄目だとかそういう話をしているわけではない。それがメロドラマ的単純と迎合したとき、何とも幼稚で独善的な言説がそこに生み出されることになる、ということだ。代表的なのは『R帝国』のそれだろう。構造的な貧困の問題がいつの間にか個々人の「善意」の問題へと矮小化され、先進国の人間がもっとよく学び生活意識を改めれば世界は変えられるんだよ、さあ、スマホを置いて、世界に目を開いてごらん――的結論に至る。要は単なる自己啓発だ。

 そもそも「善意」で弱者を救うことが美しいという発想自体、まともな大人の考えることとは思えない。そんな救済は、仮に可能だったとしても(もちろん不可能だが)、そこに経済的格差を前提とした「救う側」と「救われる側」の倫理的格差とでも呼ぶべき構造を代わりに生じさせてしまうだろう。このように、メロドラマで政治を語る者は、大抵の場合、自己陶酔のために政治的言説を利用しているために、社会に対する真摯な思考や感性を欠いてしまうである。

 結論を言っておこう。僕がここで「芸術家は政治に関わるべきではない」とかいった田舎の風習を主張したいわけではないということは、以上の文意から理解していただけると思う。問題はメロドラマや政治そのものではなく、その安易な結びつきにある。

 

 かつてフランソワ・トリュフォーは、フランスの既成映画を批判して以下のように述べた。論旨と直接には関係しないが、中村の本を読むたび思い出すくだりなので引用しておく。

わたしはかならずしもメロドラマを軽蔑するわけではなく、嫌いというわけでもない。美しいメロドラマは感動します。ただし、それはあくまでも単純にメロドラマであるがゆえに美しく感動的なのです。ところが、単なるメロドラマであることを恥じるかのように「心理的リアリズム」などという知的で意味ありげな衣をまとって大衆をだましたのが、かつての伝統的なフランス映画だったのです。(中略)だいいち、「心理的リアリズム」とはまったくの嘘で、主人公の男あるいは女はひたすら感じがよくて正直で、妻あるいは夫を裏切ったりしないし、誰のことも傷つけない。悪意もなく、およそ人間的な欠陥のない善良な人物なのです。周囲の人間は、逆に、卑劣な悪党ばかり。純粋な心を持った主役のせりふは美しく感動的で、傍役の言うことは悪意にみち、愚劣で滑稽という、なんとも鼻持ちならない図式です。純粋な魂が社会の無理解と悪意に傷つき、不幸な運命にうちひしがれる――そうしなければ感動的にならないというような映画のつくりかたそのものが、いかにもいやしくて、やりきれないと思いました。(山田宏一『わがフランス映画誌』平凡社1990年収録)

 

ポリフォニーとはなんぞや

 ポリフォニーとは、ミハイル・バフチンが『ドストエフスキー詩学』で用いた概念である。作者によるひとつの視点に収斂しない、それぞれに独立した複数の声がぶつかり続けることで生れる対話性が、ドストエフスキーの小説の特色だというのだ。

 中村はこのポリフォニーという概念を誤解しているか、あるいは極度に曲解して捉えている。要は「手記」とか「告白」とかをあれこれごちゃ混ぜにすることが「多声性」だと思っているらしいのだ。しかもその複数視点の切り替えが、これまた死ぬほど下手なのである。『教団X』を見てみよう。

私は日本に帰り、自分から師に連絡した。連絡を取った翌日、私の部屋の壁にinvocationの文字があった。私はそれを見つけ、(手記はここで終わっている) 

 こんなところで手記の執筆を中断する人間がどこに居るのか。

 というか、この小説の登場人物はかくのごとく、ひとりとして自然な思考な行動をせず、すべて作者の恣意によって動かされる駒に過ぎない。漫画じみたテロ計画、どいつもこいつも頭空っぽのセックス中毒女たち、何の脈絡もなく始まる政治談議、とつぜん中国に向けて戦闘機を飛ばす自衛隊員、どう考えても不合理な陰謀を張り巡らせる公安……。もっと例を挙げようと思ったが、そうすると小説内のほぼすべての箇所を引用することになるので、止しておく。

 こうした杜撰な作劇が平然と行われるのは、作者が小説というものをアジテーションの道具としか見做していないからである。だから、構成要素のすべてが作者の思想を伝達するための書割になってしまう。しかも、前章でも指摘した通り、中村の小説世界にあっては「正しい側」と「間違っている側」は最初から決まっている。対話や議論の余地は最初からないのである。そこにどんな多声性が生じうるのか、彼や彼の崇拝者たちに聞いてみたいところだ。

  いずれにせよ、中村の小説は、ドストエフスキー的なポリフォニーとは何の関係もない。「ドストエフスキーの影響」などと言って彼を褒め称えている読書人たちがそれを理解していないとは思えないから、彼らは権力者相手ならどんなおべんちゃらでも平気で並べる連中なのだろうと推測するしかない。

 

まとめ

 何も「中村文則を好きなやつは馬鹿だ」とか言うつもりはない。僕は批評家でも文学裁判官でもないからだ。僕自身、自分でもくだらないと確信しているシリーズ物の通俗探偵小説(名前を出すのは控える)から、純文学に対するそれとはまた違った感銘を受けてきた。それと同じように、中村の小説を愛する人もいるだろう。読書は本来個人的な行為であって、他人にとやかく言われる筋合いはない。また当然のことだが、文学作品の評価が一意に定まるということもありえない。

 しかしそうした不確かな表現様式を共有するのであれば、作家の側にもそれに見合った慎重さ、謙虚さが要請されるはずである。中村の最大の問題はまさにそこであって、彼のテクストにはそうした慎重さ、謙虚さが全く感じられないのだ。伝わってくるのはただ「ぼくが正しい、正しいと言ったら正しい」のトートロジー的な一点張りのみである。

 例えば『R帝国』においては鈴木タミラ(=作者)の思想的言説が百パーセント正しいのだということになっており、読者はこれを全面的に受け容れて以後を読むことを強要される。しかし政治の世界にあってそんなに「正しい」言説がそうそう存在する筈もなく、実際正しくもなんともないのである。その理由は既に述べた。

 中村の小説にあっては、読者は自分で何も考えず、作者の主張にひたすら盲従することだけが要請されている。むしろその点こそ、人気の秘訣なのかもしれない。彼の小説には本質的な苦悩や問いかけなど何一つない(深刻ぶった大仰な道具立てが単なるこけおどしで何の意味もないことは先に論じた通り)ので、あらかじめ答えは決まっているのだという安心感をもって読書に臨むことができるわけだ。

 まあ、それで実際売れているのだし、戦略としてはそれでいいのかもしれない。だが、そうした本の書き手が自らの戯言を「自由思考」などと銘打って宣伝していることの滑稽さだけは、やはり指摘しておかねばならないだろう。

思春期と越境――『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』感想

(公開当時に他ブログにて書いた記事http://magnetmikan.hatenablog.com/entry/2017/08/21/014813

を改稿したものです)

 

 思春期のノスタルジーを、きっと誰もが愛している。夏祭り、かまびすしい蝉の声、ささやかな家出、自分よりちょっと大人な女子……。1993年に岩井俊二が監督した『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、抑制された脚本と画面で、そんなささやかな等身大のドラマを語った。では2017年に公開されたアニメ版リメーク『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』はどうか。

 

「自分よりちょっと大人な女子」ここは外していない。花火は丸いか平たいかなどという馬鹿丸出しの言い争いに夢中になる男子どもの幼稚さに比べて、なずなが纏う雰囲気は、いかにも中学生離れした「オトナ」のものだ。典道より背丈も高いし、落ち着いているし、泳ぎも速い。「家出」を「かけおち」と言い換えたり、ワンピース姿を披露して「16歳に見えるかな」と呟いてみたり。少年たちにとって、彼女は自分の知らない「オトナ」の世界へと一足先に参入したマドンナとして立ち現れることになる。

 しかし、そんなマドンナとて結局は親の重力から逃れられない一人の子供でしかない。母親に腕を掴まれたなずなは、これまでの謎めいた「オトナ」イメージを振り捨て、激しく暴れ抵抗する。力負けして親に引き摺られながら典道に助けを求める彼女は、これまでとは全然違う、幼い女子中学生としての自らを剥き出しにしている。

 注目すべきは、この決定的に物語が動く場面において、なずなも親という現実を前に一人の子供でしかないという事実が強く提示されている点だろう。彼女が「オトナ」でいられるのは「家出」や「かけおち」という可能性、「もしかしたら」という期待の世界の中を生きているときであって、現実がそこに追いついたとき、彼女の超越性はたちまち消失してしまう。ここから現れる、美しい期待/残酷な現実、という対照性。典道となずなは現実を振り切り、可能性、「もしかしたら」の側へと逃避行を続けていくことになるのである。

 

 この映画にあっては、タイムリープを行えば行うだけ、映像的にも物語的にも、その虚構性が増大していくという(それ自体興味深い)構造を指摘することができる。歩道と草原の間の溝を飛び越える、プラットフォームから電車に飛び乗るなど「越境」のイメージが作中何度も強調されるように、彼らが「もしこうだったら……」を重ねるたび、幻想の世界は奥へ奥へと彼らをいざなっていく。打ち上げ花火は平たくなり、なずながお姫様になり、どこからともなく馬車が出てきて、電車で海を渡る。現実は母親や祐介たちと同じように、どんどん後方に遠ざかり、やがて消える。彼らが最後に辿り着く世界は、何やら波紋状の透明な壁に覆われてしまっている。願望の終着点、二人だけのセカイ。

 だが平べったい打ち上げ花火が存在しないように、「典道くんの世界」は所詮幻想でしかありえない。ふとしたきっかけで、謎のガラス玉は花火として打ち上げられてしまう。ガラス玉は膨張して破裂し、そして各々の「あり得たかもしれない幸せ」が破片として降ってくる。本編最大のクライマックスだ。

 ラストシーンをどう解釈するかにもよるけれども、この映画は実は古典的な「行きて帰りし物語」の構造に立脚していると言えるだろう。人は、越境と帰還というイニシエーションを経て、何かを失い、何かを得る。思春期という季節が、開かれた可能性の中から何かを選び取り、他の可能性を喪失していくプロセスなのだとしたら、そこには常に「あのときそうしていれば……」という思いが付きまとうはずだ。ならばifへの憧憬の象徴が砕け散り、典道くんがその破片の一つを手にするシーンは、思春期の普遍的な局面を表現するものでもあるだろう。

 ラストシーンは複数の解釈を許し、やや不気味な印象を与えもする。なずなの過去にまつわって水死体-ガラス玉のイメージが置かれており、典道はそれをなぞる形で海に飛び込むからだ(こういう挿話や小道具が照応するつくりは巧いと思う)。公開当時は「典道が元の世界に帰ってこられなくなった」「死んだ」と受け取る人も多かったと記憶している。ただ、個人的にはそうではないと思う。なにせ典道の場合、あのガラス玉は破壊されてしまっているのだ。

 とすれば、典道はガラス玉=ifを失った世界の中で、それでも目指すべき未来を見つけた、という解釈が導かれるはずだ。だから彼はきっと、転校したなずなを追いかけに行ったのだ――観た当時からそう思っていたが、後に出たコミック版ではこの解釈が採られていて(と記憶している。いま手許にないのだが……)、ちょっと嬉しくなった。

 

 映画館でこの作品を観たときのことは、今も覚えている。劇場が明るくなった途端に女児が「何これ?」と野次を飛ばし、デブのチェック柄アニメオタク二人組が「脚本で失敗している」などとデカい声で論評を語り合い、高校生カップルは気まずい雰囲気を漂わせつつ早足で劇場を後にしていた。ネットには酷評が溢れていた。こうした「満場一致」感のある世評に、いまさら異議申し立てをしようとは思わない。確かにひどい出来栄えの映画だと思う。

 ただ、このリメークには、原作を大胆に読み替えてやろうというチャレンジの精神がある。それは確かだ。そのような失敗作は、失敗作なりに肯定されてもいいのではないか、と思う。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』感想

(ネタバレ有)

 

youtu.be

 

 かつて18世紀のヨーロッパで、手紙というメディアはその最良の繁栄を謳歌していた。ほぼ唯一の連絡手段として、あるいは自己表現として、人々は手紙を書き送った。やがて19世紀末から20世紀にかけて電話が普及し、手紙はかつてのような地位を追われていく。電灯や電波塔の建設にそうした時代の転換をみながら、本作はある姉と妹の物語を紡いでいく。

 時代が変化するように、人もまた変化していく。だいいち『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の基幹にあるのが、主人公ヴァイオレットの身体の変化である。即ち少女兵としてのみ存在し得る身体から、自動手記人形=媒介者としての身体へと。「外伝」では、ヒロインのイザベラ・ヨークの変容が描かれていく。何者でもなかった貧民から一転、貴族としての地位を与えられ、その階級、ジェンダーに相応しい存在へと規律=訓練されていく。「僕」は「私」になる。しかし、その過程において――ヴァイオレットとの交流の中で――彼女はひとときだけ、階級に縛られない自由を見出すのだ。その関係は、何となく戦前の女学生のエス文化を思わせるものがある。ヴァイオレットの帰還によって、彼女が再び鉄格子=階級の中に閉ざされるところで一部は終る。

 二部では妹テイラーの物語が展開され、彼女もまた孤児から配達員に生まれ変わっていく。一方は階級に閉ざされていく者として、一方は媒介者として自らを作り替えるのだ。やがて妹は完璧な配達員として、名実共に貴族となった(なってしまった)かつての姉の許に赴くだろう。史実がどうであったかはさておき、本作においては「手紙」に、階級を超える繋がりの希望が仮託されているわけだ。

 二つではほどけてしまいますよ、三つで結えば…とヴァイオレットが言うように、本作ではヴァイオレット(というかベネディクト君なども併せて「郵便社が」と言うべきかもしれないが)が姉妹を媒介する第三の存在となる。実際「外伝」では、一度目はイザベラと、二度目はテイラーと、都合二回もヴァイオレットの入浴シーンを拝めるのだが、勿論単なるサーヴィスではなくて、恐らくは剥き出しの身体同士が出会うということが重要なのだろう。普段は見えない義手と肉体の接合部が、かつて「戦う人」であり、いまは「書く人」となった彼女の痛ましい来歴を窺わせる。なるほど彼女の存在は矛盾だらけかもしれない。しかしそんな二つの人生をその身体に引き受けて生きる彼女だからこそ、異種になってしまった者同士を繋ぎ合せることができるのかもしれない、とも思った。

 あったことをなかったことにすることはできない。これもまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』全体を貫くテーマである。ヴァイオレットが兵士であった過去を捨て去ることができないように、イザベラもまた貴族の道を選んだことを取り消すことはできない。彼女は貴族の妻として生きていくのだろう。しかし、その中でなお、彼女にはエイミーとしてかつて呼ばれた身体が、妹その人の名前を叫べる身体がある。彼女が貴族の衣裳を棄て、再びエイミーとしての身体を取り戻す瞬間は美しい。不可逆の変容の中にあってなお、人は手紙によって、自己表現によって、再生の機を見出すことができるのだ。その意味で、本作は表現による再生を、分断の超克を、どこまでも素直に歌い上げた作品であろう。確かにそのような理想は、今や大時代的なものとなりつつあるかもしれない。しかし、だからこそと言うべきか、今そのメッセージが確かに届けられたことに、胸を打たれるほかはない。

 なお、エンドクレジットで席を立つことを無闇に非難する風潮は私は嫌いなのだが(いつ出入りしようが客の自由だろうと思う)、本作に関してはやはり最後の最後まで観るべきだろう。本作を観た者なら、新作の予告に附された「鋭意制作中」の言葉に、きっと特別な思いを抱かずにはいられないからだ。何年でも待つから、焦らずゆっくりと再生の道を歩んでいってほしいと思う。

 

 

映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

 

 映画『ペンギン・ハイウェイ』観ました。

 

f:id:magnetmikan:20180819193642p:plain

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 この映画は森見登美彦の同名小説をスタジオコロリド(この映画観るまで名前すら知らなかった)がアニメ映画化したもの。原作からしてビジュアル的に面白い場面も多く「これはアニメ映画向きの作品なんじゃないか」という感はありましたが、まあ結論から言うと限りなく理想に近いアニメ化で僕としては非常に満足のいく出来栄えでした。キャラデザ、声優さんの演技、美術、演出、劇伴、どれもきっちり決まっていて、小説の映像化にありがちなコレジャナイ感がまったくなく、原作を読んだときの感動をそのまま思い返しながら観ることができました。

 

 さて映画の内容。

 主人公は、小学四年生の男の子にしては異常なほどお利口さんな理系キャラ・アオヤマくん。彼は恋という観念をまだ知りませんが、通っている歯科医院の「お姉さん」のことが気になって仕方がありません。「結婚する相手をもう決めてしまった」とか「親しくお付き合いしている」とか、何かと背伸びしたモノローグがいちいちかわいい。

 そんな彼が、海のない町でペンギンを見掛けたところからこの映画は始まります。一体、ペンギンたちはどこから来て、どこへ消えたのか。町ではちょっとした騒ぎになり、アオヤマくんは友達のウチダくんを引き連れてペンギン研究を始めます。しかし、さらに不思議なことに、ある日アオヤマくんは「お姉さん」が実はペンギンの謎と深く関わっていることに気付いてしまう……というのが導入部。

 理系少年アオヤマくんのかわいさは勿論ですが、この「お姉さん」というキャラ(名前は最後まで明かされません)もまた素晴らしい。無邪気で自由奔放で優しくて、しかし何やら不思議な力を秘めたミステリアスな女性――彼女はコーラの缶をペンギンに変身させて「この謎を解いてごらん」とアオヤマくんを誘惑します。あのシーン、アオヤマくんの歯を引っこ抜くという描写と併せてふたつのイニシエーションが重なり合うシーンだよなあ、みたいなことも考えましたが、パンフレットを読むと大森望氏が既に全く同じ指摘をしていました。何にせよ非常に鮮やかなシーンでしたね。

 

f:id:magnetmikan:20180819192735p:plain

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 それから〈海〉の発見、ウチダくんやハマモトさんとのワクワクに満ちた実験と観察の日々、ジャバウォックの出現と町に迫る危機、アオヤマくんがお姉さんの部屋を訪れる場面の静謐な美しさ……こうして書いていくとあらすじ全部書くことになってしまいそうですが。

 

 しかし何と言っても凄まじいのがクライマックス。怒濤のように押し寄せる大量のペンギン、〈海〉への突入。アニメーションならではの魅力に満ちた動的なシークエンスで盛り上がりを演出し、そして〈海〉の中は、打って変わって沈黙の廃墟が広がり……。

 そうした視覚的な快楽は勿論なのですが、それ以上に、この場面こそ「生」と「死」、歓びと哀しみが混交して奔流する、この物語全体を象徴するシーンでもあります。

 というのも、ペンギンも「お姉さん」も、これから消えてしまう運命にあるからです。この物語と「死」という問題の関連については後述しますが、ペンギンと「お姉さん」をめぐる謎の真相は、残酷といえばあまりにも残酷なものです。

 しかし未練を断ち切った「お姉さん」は、そんな葬列をカーニバルのように賑やかに演出してみせます。彼女の手によって次々とペンギンが生まれは町に溢れ出していく。「生まれる/死ぬ」という無情な真理を、ああも爽やかな祝福として描き出したという点において、あの場面は感動的でした。

 

f:id:magnetmikan:20180819193806p:plain

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 あ、あとラストシーンは原作とちょっと違うんですが、あれも映像作品として大正解としか言いようのない、見事な結末だったと思います。

 

 

 これは謎を解き明かさんとして世界の外部へと手を伸ばしていく物語でもありますが、同時に自己発見の物語でもあります。

 たとえば恋。なぜアオヤマくんは「お姉さん」を見ていると幸せな気持ちになるのか。他の人と「お姉さん」は何が違うのか。恋という謎――アオヤマくんが己のうちに抱いた謎の自覚を、原作では以下のように叙述しています。きわめて美しい文章なので、ちょっと長めに引用しておきます。

 

ぼくはかつてお姉さんの寝顔を見つめながら、何故お姉さんの顔はこういうふうにできあがったのだろうと考えたことがあった。それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光る髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。ぼくは、太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。ぼくが男があるから、ぼくの細胞の中の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。でもぼくは仮説を立てたいのでもないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川文庫・2012年)372-373頁 

 

 またこの作品では、最後まではっきり解き明かされない謎があります。即ち「お姉さん」はどこから来て、どこへ行ったのか。これは将来、アオヤマくん自身が解決するであろう謎として残り続けます。

 しかし、それは「お姉さん」だけが有する謎ではありません。我々ヒト自体、どこから生まれてどこに行くのやら、ちっともわからない。「生と死」は人類最大の謎であり続けるしょう。

 作中、アオヤマくんの妹が「お母さんが死んじゃう」と言って彼に泣きつくシーンがあります。勿論、母親が難病に罹っているとかそういうわけではなく、単に普遍的な問題として「人はいつか死ぬ」ということに気付いてしまった、というだけのことなのですが、アオヤマくんは妹をうまく慰めてあげることができません。

 

でも、たとえお腹がいっぱいであっても、何も言えなかったかもしれない。「生き物はいつか死ぬ」ということをいくら説明しても、彼女は納得しないということが、ぼくにはわかっていた。なぜならぼくも、あの夜にそんな説明では納得しなかったと思うからだ。

同上・272-273頁

 何気ない場面ですが、これは単に「お姉さん」との別離の伏線というだけに留まらない、この作品の主題に直接関わる重要なシーンだと思います。「お姉さん」という謎は、生と死という謎とも繋がっていくわけです。

 アニメ版だとカットされていますが、原作ではこの「生と死」をめぐるテーマはもう少し掘り下げられています。あえて引用しませんが、ウチダくんが自分の死生観を語る場面なんかも面白いので、このへんは是非原作も読んでほしいですね。

 

 総合すると、この作品において、世界の成り立ちを巡る謎と、己自身が抱える謎は、決して別なことではなくて、むしろそのふたつの謎が重なり合うところにこそ、この一夏の物語が存在し得たと言えるんじゃないかと。

 アオヤマくんはペンギンと〈海〉からなる世界の謎を解き明かそうとしますが、その謎は図らずも「お姉さん」という謎へ、そして自らの恋心という謎へと繋がっていきます。逆に「お姉さん」にとっては、アオヤマくんが目指す研究に付き合うことによって、逆に自らの本質を発見してしまうんですね。そしてそれらの謎に底流する「生と死」という根源的な難問。――世界の外を発見しようとする彼らの旅は、同時に彼ら自身が抱える謎へと踏み入っていく旅でもあったとは言えないでしょうか。

 

f:id:magnetmikan:20180819194125p:plain

© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 世界は謎に満ちている。このことを、こんなにも楽しくユーモラスな冒険譚として、ちょっと哲学的な思索の物語として、かつ残酷で切ない初恋の物語として描き出した本作。今年、この上なく夏映画にふさわしい作品だと思います。

 

 

※本記事の画像は全て『ペンギン・ハイウェイスペシャルトレーラー(https://youtu.be/tVhy2LnbL1A)より。

 

北条裕子『美しい顔』感想――ワイドショーと文学

 

 現在話題になっている北条裕子『美しい顔』読みました。特にこの小説に興味があったというわけではなく、出版社が無料での全文公開に踏み切ったので、便乗してタダ読みしただけですが……。芥川賞の有力候補作ということもあり、せっかくなので感想でも書いておこうと思います。

 

 

 なお今回問題となった剽窃疑惑そのものについては言及しません。「参考文献」を今のところ全部読めていないし、こうしたデリケートな問題に関して素人判断は控えるべきだと思うからです。

 

 小説の感想を述べる前に。震災と関係のない人間が震災を主題に小説を書くということの是非ですが、これ自体はとりわけ問題はないと僕は思います。小説の特質として「当事者でないから書ける」という面は確かにあるわけですし、常識的に考えても、小説家が経験していないことを書くのはごく当然のことでしょう。

 ……しかしまあ「文学のワイドショー化」という問題はそれはそれでありますし、たとえば現在さかんに議論されている「文化盗用」の問題なんかもそうですが、フィクションの名の下にマジョリティがマイノリティのことを好き勝手書いていいんだろうかという疑問も当然あります。当時と現代では文学のありようも全く異なるので、現代の作家にはまた異なる美意識やモラルが求められるのかもしれません。

 

 それは置いておくとして、感想。

 風変わりな小説です。震災を舞台にした一人称小説ながら、作者は被災者でもなければ現地に行ったこともないと公言し、若い女性のお喋りのような文章はお世辞にも整っているとは言い難い。これをどう読むべきか。

 この小説は全編「私」の語りによって成り立ち、マスコミを中心とした震災の「物語」化を批判するものです。主人公は悲しみを悲しみのままに受け入れ、凡庸な、それ故に恐ろしい「日常」へと回帰していく。「語り」によって「物語」が批判解体されていくという文学的試みを、ひとまず指摘することができます。

 とはいえ、読者は直ちにひとつの疑問を抱くはずです。即ち「この作者のやってることって、作中で批判されてるマスコミ的な取り上げ方と大して変わらないんじゃないの?」

 実際その点は作者も自覚しているらしくて、語り手=「私」は常にみずからの言葉に戸惑い、逡巡を重ねます。「私」はマスコミを脳内でボロクソに言った後、ふと我に返ってこう述べます。

  私は自分をこれほどまでに汚らしく思ったことは、いまだかつてなかった。脳味噌が勝手に邪悪な言葉をやすやすと並べ立てていくのをどうすることもできなかった。あふれ出してとまらない卑しい言葉の洪水に溺れそうだった。

   マスメディア=「物語」に対するアンビバレントな感情。「語り」の内包する自己矛盾との絶えざる格闘が、このテクストを強く鼓舞しています。「見られる」ことで規定されていく自己と、その内面との埋めがたい齟齬。震災という、ある意味でもっともワイドショー的な事象の中で分裂していく自己を、作者の筆は鋭く捉えています。決して美的と言えないこの荒い文体も、それなりにきちんとした技術上の理由があって用いられていることがわかります。

 

 ただ、僕個人としては、この小説を高く評価することはできません。というのも(芥川賞選評でも指摘されているとおりですが)、自己陶酔を批判しているはずの文章が、むしろ自己陶酔に陥っている、ないしそれらの区別がつかないような部分が目につくからです。母との「再会」もラストシーンも、読者の涙を煽る過剰表現や紋切り型の連打に堕してしまっている気がします。

私はいくども心の中で呼びかけてきた。母さん、悪いんだけど、やっぱ、大学じゃなくて専門に行きたい。そうさせてほしいの。私、やっぱり、福祉の仕事やりたいわ。災害とかにあった人が看護とか福祉とかに興味もつってすごいありきたりって感じだけどさ、私、自分がありきたりでいいって思えたんだよね。

 海面が銀色に光っていた。海面は一時も静止せず、あらゆるものを排除する残酷さとあらゆるものを受け入れる寛容さでとどまることがない。

 うーん……?

 終盤の「奥さん」の台詞もなあ。安い探偵小説の種明かしパートみたいな説明的な感じで「え、それ直接言わせちゃうのか」と思うんですが、何より被災者に対して「文学」(言うまでもなく、それは東京で書かれ東京で消費される商品です)が説教をするという、一番やってはいけないことをやってしまっている気がします。

「だけどね、このあなたが、今苦しんでおけば、今苦しみ抜いておけば、いつか必ずお母さんのことを、やすらかで穏やかな存在として受け容れられるようになっていきます。今は、そんな日は決して来ないだろうと思うでしょうけど」

「どうにもできないってわかって、そのことに怒ったり泣いたりするしかないの。苦しんで苦しんで、苦しみ抜くしかないの」

  読んだ方なら分かると思うんですけど、この後に続く「私の死んだ息子も……」みたいなくだりも説教がましく、かつ通俗的です。そういう人生訓を押しつけることが「文学」なのだろうかと、ぼくは非常に疑問に思いました。

 総体的には、試みは理解するにしても、結局のところは所謂「感動ポルノ」的なところから逃れられてない感が強い、というのが正直なところでした。何かを批判していた人が、いつのまにか批判対象と似たような存在になってしまうというのはよくあることですが、この小説もまた、そのパターンから逃れられていないように思います。

 

※引用部は全て北条裕子『美しい顔』(講談社)より 

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 

『リズと青い鳥』感想

(以下、『リズと青い鳥』の内容に触れる文章になります。できるだけ核心部分はネタバレしないようにはしていますが、気になる方は読まないようにお願いします)

 

 京都アニメーションの新作アニメ映画『リズと青い鳥』観に行きました。

 

f:id:magnetmikan:20180422120839j:plain

 

 

 手っ取り早く結論から言えば、コッテコテの、純度100%の青春恋愛劇でした。言うまでもなく女同士の。

 

 確かに『響け! ユーフォニアム』は、それ自体いわゆる「百合」色の強い作品ではありました。しかし久美子にせよ麗奈にせよ、恋をする相手はあくまで男であり、彼女たちの熱い関係性は、ひとえに音楽への真摯な情熱によって成り立っています。

 この映画で描かれる、みぞれの希美に対する想いは、音楽への想いというものを超えて、まさしく全人格的な「愛」そのものに見えます。相手の何もかもがたまらなく好き、永遠に我がものとしたい、というようなレベル。しかし希美は彼女の想いなんて知らずに、持ち前のコミュ力で他の女の子と仲良くしている……このへんの関係性は、「百合」もので言えば入間人間さんの『安達としまむら』を思い出しました。どうでもいいですが。

 

 さてこの映画は、そんなみぞれと希美の関係の変化をひたすら丹念に美しく描き出すことを目的とする映画であり、それ以外の不純物は綺麗に排除されています。

 例えば『響け! ユーフォニアム』1期では、部内政治、2期では親や姉との確執というように、いずれも何かしら青春の粘ついた暗がりが描き込まれていました。

 『リズと青い鳥』には、そういう面は殆どありません。画面は明澄で、そこには端正なもの、あるいは少女たちの邪気のない可憐な姿ばかりが映し出され、そしてその全てが、みぞれと希美の関係を美しく飾ることに奉仕している。この「美しいものしか描かない」という姿勢が、この映画を結晶のように透徹したものにしています。

 

 

 まず良かったところ。吹奏楽をテーマに据えた映画だけあって「音」の表現はこだわり抜かれ、非常に印象的でした。キャラクターの心情の機微を無言のうちに描き出す演奏シーンは勿論、ほんの些末な物音に至るまで神経が行き届いています。こればかりは実際に映画館で観なければわからないところでしょう。冒頭、みぞれと希美の足音が重なり合うシークエンスも、地味ながら彼女たちの関係をよく暗示していて魅力的。

 

 またこの映画では、みぞれと希美の関係性の暗喩として『リズと青い鳥』という作品内小説が重ねられています。

 孤独の中に暮らすリズの許にひとりの少女がやって来る。彼女たちは一緒に暮らす中でお互いにかけがえのない存在になっていくが、ある朝リズはその少女が青い鳥であることを知ってしまう。自らの愛のために少女の翼を奪って良いのかと悩んだ末、、リズはその少女を空へ帰す、「カゴを開ける」決断をする――こんな話。しかしみぞれは、リズが自らの愛を手放す理由がどうしても理解できない。私なら、ずっと「鳥」=希美をカゴに閉じ込めておくことを望むのに……と、これがこの映画の大きなテーマとなります。

 童話を暗喩として用いること自体は、ありがちですし、意図が見え透いているぶん陳腐と言えるかもしれません。僕も途中までは「どうせみぞれが「鳥」=希美を手放す決断をして終わるんでしょ」と思っていました。

 しかし、勿論この映画はそんな単純なところでは終わりません。つまり、そもそも「鳥」は本当に希美なのか?本当はみぞれこそ「鳥」なのではないか?という、暗喩の関係の逆転です。これ以上詳述はしませんが(この時点で相当なネタバレのような気も……)、この解釈の転回と、それが導くすれ違いの切なさ、さらに和解へと至るクライマックスには、確かに胸を打たれました。

 

  さらには、みぞれと希美の関係において、「カゴ」にあたるのは、他でもない「学校」です。従ってこの映画は、冒頭とラストを除いて、校舎から外にカメラが出ることはありません。プールもあがた祭りもカットされて、画面は徹底して学校に限定されている。

 それは学校が永遠に続くことを願う、みぞれの心象風景でもあるのでしょう。そんな彼女が、ついに学校から出ていくところを映して、この映画は幕を下ろします。単なる下校シーン、映画の末尾を飾るにはあまりに地味にも思えるシーンは、しかしこの場面以外にはありえないというような必然性を有しています。

 

 

 この映画への個人的な不満点を言わせてもらえば、むしろ「美しいものしか描かない」ところでしょうか。『響け! ユーフォニアム』1期が強い魅力として掲げていたような、部内政治のディティール、対立や葛藤の苦さを捉える視線は望めません。

 

 あと細かい点を挙げれば、僕はあまり詳しくないのですが、高3の夏の時点で音大志望するかしないかみたいな話をしているのはちょっと遅すぎるのでは? と思ってしまったり、新山先生の「鳥は飛び立てたかしら?」とかいう台詞が、なんだか怪しい自己啓発セミナーのカウンセリングみたいに聞こえてしまったり、まあでも、そのぐらいでしょうか。

 

 

 全体としては、いまひとつ盛り上がり切らない感もありながらも、細部までよく作り込まれた素晴らしいアニメ作品であることは間違いない映画でした。個人的には、 みぞれが「大好きのハグ」を希美にねだる場面が途轍もなくかわいくて、その部分だけで1500円分の価値は確かにありました。キスもセックスもありませんが、同性同士の慕情を、きわめて官能的に描き出した映画だと思います。