アニメ版『君の膵臓をたべたい』感想

 

 『君の膵臓をたべたい』観に行ったので以下感想(あと考察もどき)を述べます。いつもの如くネタバレにはお構いなしなので要注意。

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 © 住野よる双葉社  © 君の膵臓をたべたい アニメフィルムパートナーズ

https://youtu.be/zp162UDrtyA

 

 本作は住野よる氏による同名の青春小説をアニメ化したもの。既に実写映画が昨年に公開されており、二回目の映画化となります。大人気ですね。*1

 やはりデートムービーということなのか、劇場にはいかにもリア充っぽいカップルが沢山来ていて、中盤からずっと泣いてる女の子がいたりと、陰キャアニメオタクとしてはかなりアウェー感がありました。上映終了後は彼らリア充集団から「良かったね」とか「泣いちゃった」みたいな感想がぽつぽつ聞こえてきて、なかなか好意的な感じの反応だったように思います。

 

 さて映画の内容。根暗男子の「僕」が、病院で日記を拾うところから物語は幕を開けます。その日記(「共病文庫」と呼ばれる)の持ち主はクラスの人気者、山内桜良。彼女は「僕」にこう告げます――肝臓の病気により、自分はもう長くないと。そして「僕」は、半分なし崩し的に彼女の「死ぬ前にやりたいこと」に付き合わされることになる……というのがあらすじ。

 既にお分かりかと思いますが、この映画、ここまでの筋立てだけ見ると、何ともベタベタの難病ものメロドラマとも言えます。『余命一ヶ月の花嫁』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかの系譜。

 しかしながら、作者ももちろんこの点には自覚的です。今作では大きく分けて三つの「ひねり」を加えることによって、既存の恋愛悲劇の類型性を逸脱しようとする試みがなされています。本記事では、この点について少しばかり注目してみようと思います。

 

 まず一つ、非常に外形的なレベルの話ですが、桜良の死因が実は病気ではないということです。彼女は限られた命を全うすることさえできない。これはかなり衝撃的かつ虚無的な展開で、こうした筋立てを採用することには、かなりの勇気が必要だったと思います。受け手の意表を突くにしても、「病気が予想外に早く進行して死ぬ」とか「実は犯人はあの元カレ」とか、色々他にやりようはあったはずです。しかしこの物語においては、そうした「死」に対する物語的な意味付けや虚飾の一切を拒絶して、ただ「誰にでもあった可能性」としてそれを描こうとする。この展開に対する解釈は色々あるでしょうが、僕としては「死」の、普遍的かつアンチクライマックスな性質をこそ描きたかったのかな、という気がしました。

 とはいえ(実写映画のときも思いましたが)この展開をあまり良いとは思えません。伏線があるとはいえ、あまりにも偶然性に依拠しすぎだと思うからです。たまたまあの待ち合わせの日に、あのメールを送ったタイミングで、たまたま通り魔がやって来て死ぬ、という不運な「偶然」。筆者の家に突然美少女が押しかけてきたり、気紛れで買った宝くじ1枚で3億円ゲットしたりするのと同程度の「偶然」でしょう。「負のご都合主義」というか何というか……。

 

 この辺は色々言いたいことがあるんですが、まあそれは置いといて、二つ目。「僕」と桜良の関係を、あくまで恋愛関係として描かなかった点です。

 このことは、あの雨のシーンで「僕」が初めて年相応の性衝動をあらわにするあの場面によくあらわれています。桜良は面白半分に「僕」を誘惑しますが、冷静さを欠いた「僕」が桜良を押し倒したとき、彼女は泣いて嫌がってしまう。それで「僕」は我に返り、彼女の家から逃げ出す――この危うさのたちこめるシークエンスは映像としても秀逸だなと思うのですが(あと「僕」の童貞丸出しの感じが面白い)、何が「危うい」かって、あの場面こそ、二人の関係が変質してしまうか否かの、ぎりぎりの分水嶺だったからです。桜良はこの無二の関係の「恋愛」への変貌をこそ畏れ拒絶したとも言えるわけです。

 また二人は病院で抱擁を交わしますが、直後に桜良は親友の恭子(後述しますがこのキャラは最高に良い子)に対しても全く同じように抱きつくので、これも恋愛のサインにはなりえません。

 確かに一緒にいるとときめくし、激しく求め合っているけれど、恋愛ではない――この描き方は、とても良かったと思います。「僕」が彼女から受け取ったのは、他者との交わりという人生観であり、ある意味では桜良という人間の生そのものであって、それは「恋」などというものに矮小化されるべきものではないからです。

 

 三つ目。これこそ最も重要なポイントだと思うのですが、「恭子」というキャラの存在が挙げられます。彼女は桜良の親友、病気がちの桜良をいつも気にかけて、彼女にくっついている(ように見える)「僕」をひどく毛嫌いしています。ですが恭子は、桜良がもうすぐ死ぬことを知らない。繊細な彼女が心配しすぎるのを心配して(変な日本語)桜良が教えてあげないからです。

 桜良の死後、「僕」から初めて「共病文庫」を手渡された恭子は、その時初めて彼女の余命のことを知り、涙を流しながら「僕」を厳しく詰ります。――教えてくれていれば、部活も学校も辞めて、ずっと桜良の傍に居たのに。

 けれども、まさしく恭子がそういう人間であったからこそ、桜良は病気のことを教えるわけにはいかなかったのです。お互いのことをあまりに深く想うがゆえに、残酷な真実を最期まで共有することができない。何度観ても切なく美しい関係だと思います。

 

 しかし大事なのはここからです。前述したとおり「僕」と恭子は深く断絶し、対立する関係として描かれています。一方で、共通の友人である桜良は、二人に「仲良し」であってほしいと語ります。そして彼女の死後、「僕」はその遺志を実現すべく恭子を追いかけ、「許してほしい」「いつか友達になってほしい」と呼びかける。エンドロールの後、恭子が「僕」にガムを寄越す(一度でもこの物語に触れた方なら言うまでもないと思いますが、「ガムの手渡し」はこの物語で他者との繋がりを示す機能を帯びています)場面を以て物語は締め括られる……

 ここから見えてくるのは、実はこの作品の主題は「僕と恭子」の関係にこそあるのではないか、ということです。性別も性格もクラスに於ける立ち位置も何もかも違う、徹底的な他者としての両者。その二人が、桜良という死者の存在を介して「仲良し」になる――そのとき、この映画は、この手のメロドラマが陥りがちだった恋愛至上主義や「君と僕」の閉鎖的な関係の域を越えて、より普遍的な他者との交流を物語ることに成功しています。

 兎にも角にも、「恭子」というこのうえなく魅力的な少女。彼女の存在こそが、この映画を感動作たらしめていると思います。

 

 色々書きましたが、総体的には結構楽しめた映画でした。何より「僕」と桜良の過ごした時間の幸福を、観客も共感、共有できるような説得力がちゃんとあった気がします。ときに漫才みたいな2人の掛け合いは聞いていて楽しかったですし、あのホテルでのドキドキ感と残酷さの入り交じった感じも好きでしたし。まあ、前述したような不満点はやはりありますし、『星の王子さま』になぞらえた幻想的なシークエンスはアニメならではの演出と言えるかも知れませんが、ちょっとしつこく感じてしまったり、「傑作!」とはなかなか言いにくい感じではあるのですが。

 

 あと、個人的な好みを言えばキャラデザがすごく良かったです。桜良も恭子も超かわいい。主人公の「僕」はネクラ感とイケメン感がうまい具合にブレンドされた感じ。

 

*1: 実写映画版も一応観ましたが、こちらは正直にいえば「うーん……」という感じでした。12年後に高校教師になった主人公が、教え子に過去を語るという形式を取っているのですが、これがどうもしっくりこなかった気がします。もちろん悪い映画ではないですが。

映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

 

 映画『ペンギン・ハイウェイ』観ました。以下感想を書きますが、例によってネタバレだらけなのでまだ観てない方は注意してください。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 この映画は森見登美彦の同名小説をスタジオコロリド(ごめんなさい、この映画観るまで名前すら知らなかった……)がアニメ映画化したもの。原作からしてビジュアル的に面白い場面も多く「これはアニメ映画向きの作品なんじゃね?」という感はありましたが、まあ結論から言うと限りなく理想に近いアニメ化で僕としては大満足でした。キャラデザ、声優さんの演技、美術、演出、劇伴、どれもきっちり決まっていて、小説の映像化にありがちなコレジャナイ感がまったくなく、原作を読んだときの感動をそのまま思い返しながら観ることができました。

 

 さて映画の内容。

 主人公は、小学四年生の男の子にしては異常なほどお利口さんな理系キャラ・アオヤマくん。彼は恋という観念をまだ知りませんが、通っている歯科医院の「お姉さん」のことが気になって仕方がありません。「結婚する相手をもう決めてしまった」とか「親しくお付き合いしている」とか、何かと背伸びしたモノローグがいちいちかわいい。

 そんな彼が、海のない町でペンギンを見掛けたところからこの映画は始まります。一体、ペンギンたちはどこから来て、どこへ消えたのか。町ではちょっとした騒ぎになり、アオヤマくんは友達のウチダくんを引き連れてペンギン研究を始めます。しかし、さらに不思議なことに、ある日アオヤマくんは「お姉さん」が実はペンギンの謎と深く関わっていることに気付いてしまう……というのが導入部。

 理系少年アオヤマくんのかわいさは勿論ですが、この「お姉さん」というキャラ(名前は最後まで明かされません)もまた素晴らしい。無邪気で自由奔放で優しくて、しかし何やら不思議な力を秘めたミステリアスな女性――彼女はコーラの缶をペンギンに変身させて「この謎を解いてごらん」とアオヤマくんを誘惑します。あのシーン、アオヤマくんの歯を引っこ抜くという描写と併せてふたつのイニシエーションが重なり合うシーンだよなあ、みたいなことも考えましたが、パンフレットを読むと大森望氏が既に全く同じ指摘をしていました。何にせよ非常に鮮やかなシーンでしたね。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 それから〈海〉の発見、ウチダくんやハマモトさんとのワクワクに満ちた実験と観察の日々、ジャバウォックの出現と町に迫る危機、アオヤマくんがお姉さんの部屋を訪れる場面の静謐な美しさ……こうして書いていくとあらすじ全部書くことになってしまいそうですが。

 

 しかし何と言っても凄まじいのがクライマックス。怒濤のように押し寄せる大量のペンギン、〈海〉への突入。アニメーションならではの魅力に満ちた動的なシークエンスで盛り上がりを演出し、そして〈海〉の中は、打って変わって沈黙の廃墟が広がり……制作陣の力の入れようが直に伝わってくる、圧巻の映像です。

 何が素晴らしいかって、視覚的な快楽は勿論なのですが、それ以上に、この場面こそ「生」と「死」、歓びと哀しみが混交して奔流する、あらゆる意味でこの映画を代表するシーンだからです。

 というのも、ペンギンも「お姉さん」も、これから消えてしまう運命にあるからです。この物語と「死」という問題の関連については後述しますが、ペンギンと「お姉さん」をめぐる謎の真相は、残酷といえばあまりにも残酷なものです。

 しかし未練を断ち切った「お姉さん」は、そんな葬列をカーニバルのように賑やかに演出してみせます。彼女の手によって次々とペンギンが生まれは町に溢れ出していく。「生まれる/死ぬ」という無情な真理を、ああも爽やかな祝福として描き出したという点において、あの場面はこの上なく感動的でした。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 あ、あとラストシーンは原作とちょっと違うんですが、あれも映像作品として大正解としか言いようのない、見事な結末だったと思います。そしてその直後に流れる宇多田ヒカルの「Good night」……あのとき、多分人生で初めて映画館で泣く体験をしました。とにかく素晴らしかったです。

 

 

 褒め言葉ばかりでも面白くないので、ここからはちょっとした考察(という名のポエム)。

 これは謎を解き明かさんとして世界の外部へと手を伸ばしていく物語でもありますが、同時に自己発見の物語でもあります。

 たとえば恋。なぜアオヤマくんは「お姉さん」を見ていると幸せな気持ちになるのか。他の人と「お姉さん」は何が違うのか。恋という謎――アオヤマくんが己のうちに抱いた謎の自覚を、原作では以下のように叙述しています。きわめて美しい文章なので、ちょっと長めに引用しておきます。

 

ぼくはかつてお姉さんの寝顔を見つめながら、何故お姉さんの顔はこういうふうにできあがったのだろうと考えたことがあった。それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光る髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。ぼくは、太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。ぼくが男があるから、ぼくの細胞の中の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。でもぼくは仮説を立てたいのでもないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川文庫・2012年)372-373頁 

 またこの作品では、最後まではっきり解き明かされない謎があります。即ち「お姉さん」はどこから来て、どこへ行ったのか。これは将来、アオヤマくん自身が解決するであろう謎として残り続けます。

 しかし、それは「お姉さん」だけが有する謎ではありません。我々ヒト自体、どこから生まれてどこに行くのやら、ちっともわからない。「生と死」は人類最大の謎であり続けるしょう。

 作中、アオヤマくんの妹が「お母さんが死んじゃう」と言って彼に泣きつくシーンがあります。勿論、母親が難病に罹っているとかそういうわけではなく、単に普遍的な問題として「人はいつか死ぬ」ということに気付いてしまった、というだけのことなのですが、アオヤマくんは妹をうまく慰めてあげることができません。

 

でも、たとえお腹がいっぱいであっても、何も言えなかったかもしれない。「生き物はいつか死ぬ」ということをいくら説明しても、彼女は納得しないということが、ぼくにはわかっていた。なぜならぼくも、あの夜にそんな説明では納得しなかったと思うからだ。

同上・272-273頁

 何気ない場面ですが、これは単に「お姉さん」との別離の伏線というだけに留まらない、この作品の主題に直接関わる重要な機能を帯びたシーンだと思います。「お姉さん」という謎は、生と死という謎とも繋がっていくわけです。

 アニメ版だとカットされていますが、原作ではこの「生と死」をめぐるテーマはもう少し掘り下げられています。あえて引用しませんが、ウチダくんが自分の死生観を語る場面なんかも面白いので、このへんは是非原作も読んでほしいですね。

 

 総合すると、この作品において、世界の成り立ちを巡る謎と、己自身が抱える謎は、決して別なことではなくて、むしろそのふたつの謎が重なり合うところにこそ、この一夏の物語が存在し得たと言えるんじゃないかと。

 アオヤマくんはペンギンと〈海〉からなる世界の謎を解き明かそうとしますが、その謎は図らずも「お姉さん」という謎へ、そして自らの恋心という謎へと繋がっていきます。逆に「お姉さん」にとっては、アオヤマくんが目指す研究に付き合うことによって、逆に自らの本質を発見してしまうんですね。そしてそれらの謎に底流する「生と死」という根源的な難問。――世界の外を発見しようとする彼らの旅は、同時に彼ら自身が抱える謎へと踏み入っていく旅でもあったとは言えないでしょうか。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 世界は謎に満ちている。このことを、こんなにも楽しくユーモラスな冒険譚として、ちょっと哲学的な思索の物語として、かつ残酷で切ない初恋の物語として描き出した本作。今年、この上なく夏映画にふさわしい作品だと思います。

 

 

※本記事の画像は全て『ペンギン・ハイウェイスペシャルトレーラー(https://youtu.be/tVhy2LnbL1A)より。

 

北条裕子『美しい顔』感想――ワイドショーと文学

 

 現在話題になっている北条裕子『美しい顔』読みました。特にこの小説に興味があったというわけではなく、出版社が無料での全文公開に踏み切ったので、便乗してタダ読みしただけですが……。芥川賞の有力候補作ということもあり、せっかくなので感想でも書いておこうと思います。

 

 

 なお今回問題となった剽窃疑惑そのものについては言及しません。「参考文献」を今のところ全部読めていないし、こうしたデリケートな問題に関して素人判断は控えるべきだと思うからです。

 

 小説の感想を述べる前に。震災と関係のない人間が震災を主題に小説を書くということの是非ですが、これ自体はとりわけ問題はないと僕は思います。小説の特質として「当事者でないから書ける」という面は確かにあるわけですし、常識的に考えても、小説家が経験していないことを書くのはごく当然のことでしょう。

 ……しかしまあ「文学のワイドショー化」という問題はそれはそれでありますし、たとえば現在さかんに議論されている「文化盗用」の問題なんかもそうですが、フィクションの名の下にマジョリティがマイノリティのことを好き勝手書いていいのかみたいな疑問も当然あります。当時と現代では文学のありようも全く異なるので、現代の作家にはまた異なる美意識やモラルが求められるのかもしれません。

 

 それは置いておくとして、感想。

 風変わりな小説です。震災を舞台にした一人称小説ながら、作者は被災者でもなければ現地に行ったこともないと公言し、若い女性のお喋りのような文章はお世辞にも整っているとは言い難い。これをどう読むべきでしょうか。

 この小説は全編「私」の語りによって成り立ち、マスコミを中心とした震災の「物語」化を批判するものです。主人公は悲しみを悲しみのままに受け入れ、凡庸な、それ故に恐ろしい「日常」へと回帰していく。そこには、我々が震災文学を読むにあたって内心期待してしまうようなドラマはありません。「語り」によって「物語」が批判解体されていくというのは、何だか現代文学的な試みでもある気がしますね。

 とはいえ、読者は直ちにひとつの疑問を抱くはずです。この作者のやってることって、作中で批判されてるマスコミ的な取り上げ方と大して変わらないんじゃないの?

 実際その点は作者も自覚しているらしくて、語り手=「私」は常にみずからの言葉に戸惑い、逡巡を重ねます。「私」はマスコミを脳内でボロクソに言った後、ふと我に返ってこう述べます。

  私は自分をこれほどまでに汚らしく思ったことは、いまだかつてなかった。脳味噌が勝手に邪悪な言葉をやすやすと並べ立てていくのをどうすることもできなかった。あふれ出してとまらない卑しい言葉の洪水に溺れそうだった。

   マスメディア=「物語」に対するアンビバレントな感情。「語り」の内包する自己矛盾との絶えざる格闘こそが、この小説のテクストを構成しているかのようです。「小説」という内面描写を得意とするいうメディアの美質が活かされているとも言えますが、即ち現代において、ワイドショーと文学にどのような差があるのか? という問いこそ、この小説の文学的な問いかけであり、挑戦なのだと思います。だとすれば、決して美的と言えないこの荒い文体も、技術上の理由があって用いられていることがわかります。

 

 ……ただ読み終えて、ごく率直に「俺、この小説好きじゃない…」とは思いました。

 何というか、自己陶酔を批判しているはずの文章が、むしろ自己陶酔に陥っている、ないしそれらの区別がつかないような部分が目につくんですね。母との「再会」もラストシーンもなんだか読者の涙を煽る過剰表現や紋切り型の連打に堕してしまっている気がします。

私はいくども心の中で呼びかけてきた。母さん、悪いんだけど、やっぱ、大学じゃなくて専門に行きたい。そうさせてほしいの。私、やっぱり、福祉の仕事やりたいわ。災害とかにあった人が看護とか福祉とかに興味もつってすごいありきたりって感じだけどさ、私、自分がありきたりでいいって思えたんだよね。

 海面が銀色に光っていた。海面は一時も静止せず、あらゆるものを排除する残酷さとあらゆるものを受け入れる寛容さでとどまることがない。

 うーん……

 終盤の「奥さん」の台詞もなあ。安い探偵小説の種明かしパートみたいな説明的な感じで「え、それ直接言わせちゃう?」って感じなんですが、何より被災者に対して「文学」が説教をするという、一番やってはいけないことをやってしまっていて、読んでいて非常に違和感がありました。 

「だけどね、このあなたが、今苦しんでおけば、今苦しみ抜いておけば、いつか必ずお母さんのことを、やすらかで穏やかな存在として受け容れられるようになっていきます。今は、そんな日は決して来ないだろうと思うでしょうけど」

「どうにもできないってわかって、そのことに怒ったり泣いたりするしかないの。苦しんで苦しんで、苦しみ抜くしかないの」

  読んだ方なら分かると思うんですけど、この後に続く「私の死んだ息子も……」みたいなくだりも、何だか母性神話っぽくて胡散臭いですよね。愛した人の無惨な死体を見たくない、見なくて良かったという方だって当然いらっしゃるでしょうに。そんなの本当に普遍的なことなのか? そうした人生訓を「文学」が押し付けていいのか?

 総体的には、試みは理解するにしても、結局のところは所謂「感動ポルノ」的なところから逃れられてない感じがして辛いというのが僕の正直なところでした。まあ何かを批判していた人が、いつのまにか批判対象と似たような存在になってしまうというのはよくあることですが、この小説もそんな感じだったなあ、と。

 

※引用部は全て北条裕子『美しい顔』(講談社)より 

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 

2018年上半期読んだ本

 ひとまずメモ的に。冊数の少なさに怠けぶりがあらわれていて気恥ずかしいですね……

 

・雑誌、コミック、学習参考書、ライトノベルに類するものは除く

・最後まで読んでいない本は除く

・図書館で借りた本など、現在手元にない本は除く

・順不同

 

『背教者ユリアヌス』辻邦生・全四巻

 長い。長いですが、最後までわりと一気に読めます。何と言っても面白いし。

 血なまぐさい謀略から青春恋愛ものになったかと思ったら、裁判、皇后との禁断の愛、そして副帝へ、戦争へ……! 古代の神々が現れてユリアヌスに啓示を与えるみたいな、古代の物語ならではの幻想小説的な描写も好きですね。

 辻邦生の文章は相変わらず甘く美しく、特に出だしとラストの描写は凄いです。この大長篇の悲劇と美しさの全てが詰まっているような気がします。

 

『廻廊にて』辻邦生

 残された日記や手紙から、不運のうちに死んだロシア人女画家マーシャの生涯と救済を追っていくというスタイルの小説。主人公と語り手を分離させるやり方は、『夏の砦』でも使われていましたね。

 構想よりも大きく膨らんでしまい、遂に小説の中心人物にまでなってしまったらしい美少女アンドレが非常に魅惑的。主人公マーシャが「もうアンドレのことしか考えられない!  アンドレ愛してる!(意訳)」ってなってる場面とかすごくかわいい。少女同士の魂の繋がりってやっぱり素敵だよなあ……

 

『複製技術時代の芸術』ベンヤミン

 今まで読んでなかったんかい、と言われると恥じいるしかない必読文献。政治の耽美主義に対抗して、コミュニズムは芸術を政治化させるのだ。

 

『深い河』遠藤周作

 遠藤周作の傑作長篇、ということになっていますが、個人的にはイマイチ。説教がましく類型的で、妻との死別とか美津子の描写とか、何だか全体的にメロドラマっぽさを感じてしまって……。三條夫婦とか非常に安易な悪役で、もう全部こいつらが悪いよという感じで事態が推移していきます。奥さんを大切にせずに死なせたくせに、三條がバスに妻を置いていっただけでケシカランと陰口をきく磯辺とか、一体何なんでしょうね。

 日本のキリスト教文学と言っても、これなら「少女小説乙ww」とか評論家に馬鹿にされてた三浦綾子の『氷点』とかの方が、よっぽど面白かったなあ。

 

『イエスの生涯』遠藤周作

 これは面白かった! 民族運動の指導者として期待されながら、最期まで愛に生きて死んだ無力な男としてイエスを描き出してみせた書物です。勿論宗教的、歴史学的見地から見てどの程度妥当性があるのかは分かりませんが、読み物として素敵でした。

 

『R帝国』中村文則

 いつもの如くもっともらしい政治的言説をくっつけたおままごと三文ポルノ小説。全てにおいて幼稚すぎてまともな大人はまず読めないでしょう。『土の中の子供』もひどかったし『教団X』も作家志望の中学生が書いたアダルトビデオの脚本みたいな代物だし、この作家に関してはちょっと生理的嫌悪に近い感情を抱いています。

 

『大いなる遺産』ディケンズ・上下

 必読と言っていい古典的名作なので今更詳述もしませんが、もうべらぼうに面白いです。成り上がりと転落、ジョーやハーバートとの美しい友情、胸を焦がす恋……それほど長い小説ではありませんが、ここには小説の面白さの全てが詰まっているような気さえします。まあそんなことはともかく令嬢エステラがとてもかわいいです。ずっとつんつんしてるプライドの高い女なんですが、最後の最後でやっとデレてくれる。

 

『楡家の人びと』北杜夫・全三巻(再読)

 通読は三回目。私の中ではオールタイムベストとも言える小説で、高校二年生のときに三島由紀夫の絶賛に導かれてこの小説と出会っていなかったら、少なくとも文学部には入ってなかっただろうなとさえ思います。

 やはり何度読んでも圧倒されます。伊助じいさんが飯を炊く描写から始まり、視点を徐々に広げて病院の生活を活写していく冒頭部分からして、こんなに魅力的な小説の出だしは未だに読んだことがありません。没落の果てのラストシーンと残酷な対比を成す場面でもありますね。

 ブラジル移民を描いた『輝ける碧き空の下で』を読んでいても思いますが、北杜夫ほど「市民」というか、社会を動き回る群像をうまく描いた作家は、日本の文学史上でも稀なのではないでしょうか。多種多様な人物がこれでもかと登場し、それぞれに協力したり反目したりしながら、全てが非人称的に時の流れの中に押し流されていく。無常感に満ちてはいますが、『楡家の人びと』には、何だかそれらをもひっくるめた人生賛歌のような清冽な明るさをも感じます。優れたユーモアによるものでしょう。

 とにかく日本近代文学の傑作中の傑作。日本語が読めるなら、何を措いても読むべき小説だと思います。

 

『木霊』北杜夫

 初期作品『幽霊』の続篇。ドイツから日本での不倫生活を回想するというもの。トーマス・マンへの思慕が美しい。

 

『トニオ・クレーゲル』トーマス・マン

 ↑の作家が決定的な影響を受けた世界的作家の青春小説……ですがなかなかとっつきにくい印象。『ブッデンブローグ家の人びと』を読んだときもそうだったのですが、個人的にトーマス・マンはわからない作家です。

 

『監督 小津安二郎蓮實重彦

 この批評を読むために小津安二郎の映画を観ました。薬を貰うために病気になるみたいなあべこべ感がありますね。

 

『暗夜行路』志賀直哉

 志賀直哉唯一の大長篇。個人的には終始何が面白いのか分からず、終盤、奥さんに暴力を振るう主人公にドン引きしました。「自分はずっとこの人についていくのだ」とか、よく思えるなあ。ずっと時任謙作の視点だったのに、ここだけ奥さんの心理に踏みいった描写になってるのも不思議。誰かこの小説の良さを教えてほしい。

 

フランクフルト学派細見和之

 アドルノベンヤミンが属し、反ユダヤ主義との対決やマルクスフロイトの統合などを試みた「フランクフルト学派」についての入門書。「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」という言葉は今も変わらず恐ろしい。アドルノも読まなきゃいけないなあ……

 

『終焉をめぐって』柄谷行人

 ゼミ発表の資料として。

 

石原慎太郎を読んでみた』豊崎由美栗原裕一郎

 タイトルの通り石原慎太郎の小説の書評。「行為」は書けるが「心理」が書けない作家。

 

『螢・納屋を焼く・その他短篇』村上春樹

 初期短編集。村上春樹は短篇の名手ですが、これはなんかいまいちな作品が多かったですね。表題作の『螢』も(著者の言うとおり)文章が荒い気がします。

 

『東京綺譚集』村上春樹

 ↑と同じく短編集。これは素晴らしかったです。とりわけ『ハナレイ・ベイ』は春樹嫌いの人にこそ読んでほしい短篇。多分村上春樹のイメージが変わると思います。

 

国境の南、太陽の西村上春樹

 村上春樹最大の怪作『ねじまき鳥クロニクル』から派生した長篇。主人公がクズ過ぎて面白いという以外には特に……

 

キリスト教の歴史 』小田垣雅也

 タイトル通り、キリスト教2000年の歩みを綴る。そのスケールのわりには258頁と短めで、入門書っぽいのですが、思想や哲学にまつわる記述はやはりなかなか難しいです。トマス神学やプロテスタントについてある程度の基礎知識がないと厳しい印象。

 

『深読み日本文学』島田雅彦

 タイトルに反してそれほど「深読み」はしていません。日本近代文学史の概論的理解には適しているかも。

 

『日本近代小説史』安藤宏

 日本文学の研究入門書。タイトル通りの内容であまり言うこともありません。ゼミ発表では非常に役に立ちました。

 

『日本文学史小西甚一

 これもタイトル通り。私小説に対してはやはり批判的。

 

『風俗小説論』

 花袋の『蒲団』以降の日本の私小説が、実はロマン主義の弊害を色濃く受け継いだ存在であることを明らかにし、それが自然主義リアリズムと誤解されてしまっているということを指摘する書物。私小説批判という意味では、小林秀雄の『私小説論』と並んで有名かも。

 

田山花袋『蒲団』

 ↑でボロカスに言われている小説。赤裸々な告白体で日本に於ける自然主義の先駆となった小説ですが、実は実話ではないらしいですね。

 

『病気と日本文学』福田和也

 これは面白かったです。慶応義塾大学での講義をまとめたものですが、病気という観点から日本近現代文学に於ける「写生文」「自己と他者」「身体と精神」」「自殺」「狂気」といったテーマが紐解かれていきます。

 

『批評理論入門』廣野由美子

 ゼミの先生に薦められて。『フランケンシュタイン』を題材に、ポストコロニアルジェンダーなど、様々な文学批評の視点を紹介するというものです。

 

桜の園チェーホフ

 太宰の『斜陽』の原型となった戯曲。美しい土地を失う一家の物語。没落する貴族階級、家族の愛と対立、「桜」のモチーフなど個人的に好みの要素が満載で楽しく読めました。

 

 

 

『リズと青い鳥』感想

(以下、『リズと青い鳥』の内容に触れる文章になります。できるだけ核心部分はネタバレしないようにはしていますが、気になる方は読まないようにお願いします)

 

京都アニメーションの新作アニメ映画『リズと青い鳥』観に行きました。

 

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手っ取り早く結論から言えば、コッテコテの、純度100%の青春恋愛劇でした。言うまでもなく女同士の。

 

確かに『響け! ユーフォニアム』は、それ自体いわゆる「百合」色の強い作品ではありました。しかし久美子にせよ麗奈にせよ、恋をする相手はあくまで男であり、彼女たちの熱い関係性は、ひとえに音楽への真摯な情熱によって成り立っています。

この映画で描かれる、みぞれの希美に対する想いは、音楽への想いというものを超えて、まさしく全人格的な「愛」そのものに見えます。相手の何もかもがたまらなく好き、永遠に我がものとしたい、彼女が私の全て、というようなレベル。しかし希美は彼女の想いなんて知らずに、持ち前のコミュ力で他の女の子と仲良くしている……このへんの関係性は、百合もので言えば入間人間さんの『安達としまむら』を思い出しました。

 

さてこの映画は、そんなみぞれと希美の関係の変化をひたすら丹念に美しく描き出すことを目的とする映画であり、それ以外の不純物は綺麗に排除されています。

例えば『響け! ユーフォニアム』1期では、部内政治、2期では親や姉との確執というように、いずれも何かしら「イヤな面」や「あまり見たくないもの」が描かれていました。

リズと青い鳥』には、そういう面は殆どありません。画面を構成するのは端正なもの、あるいは少女たちの邪気のない可憐な姿ばかりで、そしてその全てが、みぞれと希美の関係を美しく飾ることに奉仕しています。この「美しいものしか描かない」という姿勢が、この映画を結晶のように透徹したものにしています――悪く言えばいささか単調な。

 

 

まず良かったところ。吹奏楽をテーマに据えた映画だけあって「音」の表現はこだわり抜かれ、非常に印象的でした。キャラクターの心情の機微を無言のうちに描き出す演奏シーンは勿論、ほんの些末な物音に至るまで神経が行き届いています。こればかりは実際に映画館で観なければわからないところでしょう。冒頭、みぞれと希美の足音が重なり合うシークエンスも、地味ながら彼女たちの関係をよく暗示していて魅力的。

 

またこの映画では、みぞれと希美の関係性の暗喩として『リズと青い鳥』という作品内小説が重ねられています。

孤独の中に暮らすリズの許にひとりの少女がやって来る。彼女たちは一緒に暮らす中でお互いにかけがえのない存在になっていくが、ある朝リズはその少女が青い鳥であることを知ってしまう。自らの愛のために少女の翼を奪って良いのかと悩んだ末、、リズはその少女を空へ帰す、「カゴを開ける」決断をする――こんな話です。しかしみぞれは、リズが自らの愛を手放す理由がどうしても理解できない。私なら、ずっと「鳥」=希美をカゴに閉じ込めておくことを望むのに……と、これがこの映画の大きなテーマとなります(こうして書くとヤンデレっぽい…)。

童話を暗喩として用いること自体は、ありがちですし、もしかしたら意図が見え透いているだけ陳腐と言えるかもしれません。僕も途中までは「どうせみぞれが「鳥」=希美を手放す決断をして終わるんでしょ」と思っていました。

しかし、勿論この映画はそんな単純なところでは終わりません。つまり、そもそも「鳥」は本当に希美なのか?本当はみぞれこそ「鳥」なのではないか?ということです。これ以上詳述はしませんが(この時点で相当なネタバレのような気も……)、この解釈の転回と、それが導くすれ違いの切なさ、さらに和解へと至るクライマックスには、確かに胸を打たれました。

 

 さらには、みぞれと希美の関係において、「カゴ」にあたるのは、他でもない「学校」です。この映画は、冒頭とラストを除いて、校舎から外にカメラが出ることはありません。プールもあがた祭りも、このフィルムには映されません。画面は学校に限定されているわけです。

それは学校が永遠に続くことを願う、みぞれの心象風景でもあるのでしょう。そんな彼女が、ついに学校から出ていくところを映して、この映画は幕を下ろす。単なる下校シーン、映画の末尾を飾るにはあまりに地味にも思えるシーンは、しかしこの場面以外にはありえないというような必然性を有しています。

 

 

 個人的な不満点を言えば、やはり起伏の乏しさ、物語としてのスケールの小ささが気になりました。そもそも手法として舞台を学校に限定したために、また「本番」を描かなかったために、どうしても動的な広がり、ドラマチックな場面を演出しにくいんですね。

 また「美しいものしか描かない」ために、『響け! ユーフォニアム』1期にあったような部内政治のイデオロギーの拮抗や、ある種の苦さ、やりきれなさを残す情感はやはり望めません。

 

二人の朝練風景でもいいから「完全に成功した演奏」を聞かせてほしかったという印象もやはりありました。最後にあるんじゃないかと思ってエンドロールを注視していたら、そのまま明るくなってしまってちょっとガッカリしたのを覚えています。

 

あと細かい点を挙げれば、僕はあまり詳しくないのですが、高3の夏の時点で音大志望するかしないかみたいな話をしているのはちょっと遅すぎるのでは? と思ってしまったり、新山先生の「鳥は飛び立てたかしら?」とかいう『true tears』の石動乃絵か何かみたいな台詞が、なんだか怪しい自己啓発セミナーのカウンセリングみたいに聞こえたり、まあでも、そのぐらいでしょうか。

 

 

全体としては、いまひとつ盛り上がり切らない感もありながらも、細部までよく作り込まれた素晴らしいアニメ作品であることは間違いないという感じの映画でした。

個人的には、 みぞれが「大好きのハグ」を希美にねだる場面がもうありえないほどかわいくて、その部分だけで1500円分の価値は確かにありました。キスもセックスもありませんが、同性同士の慕情を、きわめて官能的に描き出した百合映画だと思います。