『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』感想

(ネタバレ有)

 

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 かつて18世紀のヨーロッパで、手紙というメディアはその最良の繁栄を謳歌していた。ほぼ唯一の連絡手段として、あるいは自己表現として、人々は手紙を書き送った。やがて19世紀末から20世紀にかけて電話が普及し、手紙はかつてのような地位を追われていく。電灯や電波塔の建設にそうした時代の転換をみながら、本作はある姉と妹の物語を紡いでいく。

 時代が変化するように、人もまた変化していく。だいいち『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の基幹にあるのが、主人公ヴァイオレットの身体の変化である。即ち少女兵としてのみ存在し得る身体から、自動手記人形=媒介者としての身体へと。「外伝」では、ヒロインのイザベラ・ヨークの変容が描かれていく。何者でもなかった貧民から一転、貴族としての地位を与えられ、その階級、ジェンダーに相応しい存在へと規律=訓練されていく。「僕」は「私」になる。しかし、その過程において――ヴァイオレットとの交流の中で――彼女はひとときだけ、階級に縛られない自由を見出すのだ。その関係は、何となく戦前の女学生のエス文化を思わせるものがある。ヴァイオレットの帰還によって、彼女が再び鉄格子=階級の中に閉ざされるところで一部は終る。

 二部では妹テイラーの物語が展開され、彼女もまた孤児から配達員に生まれ変わっていく。一方は階級に閉ざされていく者として、一方は媒介者として自らを作り替えるのだ。やがて妹は完璧な配達員として、名実共に貴族となった(なってしまった)かつての姉の許に赴くだろう。史実がどうであったかはさておき、本作においては「手紙」に、階級を超える繋がりの希望が仮託されているわけだ。

 二つではほどけてしまいますよ、三つで結えば…とヴァイオレットが言うように、本作ではヴァイオレット(というかベネディクト君なども併せて「郵便社が」と言うべきかもしれないが)が姉妹を媒介する第三の存在となる。実際「外伝」では、一度目はイザベラと、二度目はテイラーと、都合二回もヴァイオレットの入浴シーンを拝めるのだが、勿論単なるサーヴィスではなくて、恐らくは剥き出しの身体同士が出会うということが重要なのだろう。普段は見えない義手と肉体の接合部が、かつて「戦う人」であり、いまは「書く人」となった彼女の痛ましい来歴を窺わせる。なるほど彼女の存在は矛盾だらけかもしれない。しかしそんな二つの人生をその身体に引き受けて生きる彼女だからこそ、異種になってしまった者同士を繋ぎ合せることができるのかもしれない、とも思った。

 あったことをなかったことにすることはできない。これもまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』全体を貫くテーマである。ヴァイオレットが兵士であった過去を捨て去ることができないように、イザベラもまた貴族の道を選んだことを取り消すことはできない。彼女は貴族の妻として生きていくのだろう。しかし、その中でなお、彼女にはエイミーとしてかつて呼ばれた身体が、妹その人の名前を叫べる身体がある。彼女が貴族の衣裳を棄て、再びエイミーとしての身体を取り戻す瞬間は美しい。不可逆の変容の中にあってなお、人は手紙によって、自己表現によって、再生の機を見出すことができるのだ。その意味で、本作は表現による再生を、分断の超克を、どこまでも素直に歌い上げた作品であろう。確かにそのような人文主義的な理想は、今や大時代的なものとなりつつあるかもしれない。しかし、だからこそと言うべきか、今そのメッセージが確かに届けられたことに、胸を打たれるほかはない。

 なお、エンドクレジットで席を立つことを無闇に非難する風潮は私は嫌いなのだが(いつ出入りしようが客の自由だろうと思う)、本作に関してはやはり最後の最後まで観るべきだろう。本作を観た者なら、新作の予告に附された「鋭意制作中」の言葉に、きっと万感の敬意を抱かずにはいられないからだ*1。何年でも待つから、焦らずゆっくりと再生の道を歩んでいってほしいと思う。

 

 

*1:無論、本作が多くの犠牲者の手によって成り立っていることを思えば、スタッフロールをきちんと観るのも大事だ。……大事なのだが、私はどうにも痛ましくて、思わず俯いて目を逸らしてしまった。隣の席の人が深い嘆息を洩らしているのが聞こえた。

六地蔵にて

 

 どういうわけか不幸が続き七月以降は心身ともに絶不調だった。一日中鬱々としてベッドから出られなかったり、かと思えば理由もなく興奮状態になって一睡もできなかったりした。こういうときはアニメでも観て心を慰めるのが習慣だったが、いまやそうもいかない。

 それでも八月に入ると、流石に気持ちも落ち着いてきた。身体的に体調を崩すことは多かったが、精神的には、外出が可能そうな状態になんとか復調していた。そこで、かねてから行かなければならないと思いつつ先延ばしにしていた、京都アニメーション第1スタジオへの献花を、ようやく決行することにした。大仰ないい方だが、同じ京都市なのだからちょっとしたお出かけ程度の距離である。しかし家から一歩も出られない日が続いた私にとっては、これでも大冒険だった。

 こういう日記的な文章を書く機会はこれまでほぼなかったが、とても印象深い出来事でもあったから、いくらかの不謹慎は承知のうえで、むしろ私的な備忘録として、ここにそのことを書き記しておこうと思う。

 

 重大事件が起ると、決まって献花台が設けられ、多くの人々が花やらお菓子やらを置いていく。私はこれまで、こうした儀式に行く人の気持ちが、正直に言ってわからなかった。さらに正直に言えば、いまもわかっていないし、自分が何故行こうと思ったのかすらわかっていない。

 強いて言えば、区切りを付けるため、即ち日常を取り戻すため、という意味合いが強いのかもしれない。事件の衝撃は、人間の生活や感性を、やはりどこかしら変容させてしまう。私は事件のあった日からしばらく、我々の日常が何事もなく続いているのが、なんだか許しがたい不条理のような気がしていた。なぜ誰もが顔色ひとつ変えずに生活できているのか分からなかった。本当にそういう感覚に陥っていたのだ。あるいは(これは誤解しないでほしいのだが)むしろ生者の連帯のためではないかとも思える。

 私はルネ・クレマンの『禁じられた遊び』という映画が好きで好きで、いつ見ても落涙してしまうのだが、あの映画がああも人の心を打つのは、弔いが、それを通じて生者同士が繋がっていく儀式として描かれているからではないだろうか。それはミシェルとポーレットに限らず、ポーレットの家族やその隣人一家も同じであり、墓は共同体の尊厳そのものである。そしてそれ故に彼等は争うことになるのだが、これは無名戦士の墓碑をナショナリズムの文化装置と見るB・アンダーソンの議論にみられるように、本作のいまひとつの主題たる国家間の戦争の論理にも通ずる。弔いの周囲にはいつも繋がりの意識が、共同体が形成されるのだ。

 

 ……話を戻そう。ともかく弔いに行かなければならないと思ったのだった。私自身、いつまでも精神的に引き摺っているわけにはいかなかったし、他の人々と、死者への想いを共有したかった。実際にはもっと衝動的なところがあったが、この説明で大きく間違ってはいないだろう。

 しかし私は地下鉄に乗り込む前に既に二つ間違っていた。ひとつは身なりだ。

 引き籠もりのような生活を送っていたために、髪も髭も伸ばしっぱなしで、完全に浮浪者の外見だった。駅構内でガラスに映る自分を見て、ようやく自分のみすぼらしさに気づくという、イギリス留学中の夏目漱石みたいなありさまなのだ。風呂と洗濯はしていたものの、着ている服もよれよれで、要するにあまりに清潔感を欠いていた。道を教えていただいた近隣住民の方も、よくこんな不審者に快く対応していただいたものだと感謝は尽きない。

 もうひとつは花の選択だった。近くの花屋が閉店していたので近くのスーパーに立ち寄り、選択したのは530円のしょぼいカーネーション。当然ながらリボンや包装などの気の利いた装飾もなく、お話にもならないケチさであった。どのぐらいが相場で、どんなものを選択していいかわからなかったのだ。ともあれこんな状態で、右も左もわからぬまま私は献花台に突撃していったわけだ。

 

 そもそも私は3年も住んで京都の地理に甚だ不案内であったし、いわゆる「聖地巡礼」の文化にも馴染みがなかった。旅行に関心が低かったというのも勿論あるが、なによりアニメとして築き上げられた幻想世界が、不用意に現実と接地することでその虚構性をあらわにしてしまうことが嫌だったのだ。私はあくまで空想に没入したいタイプだった。

 しかしGoogleマップを頼りに六地蔵駅なる聞き慣れない駅から地上に出ると、たちまちその現実が視界に現れてきた。

 

 

 

 いちおう観光ではなく追悼に来ているわけだから写真撮影は控えたが、山科川の橋の、あの鉄塔のあたり、確か『響け! ユーフォニアム』のOPで映っていた場所じゃなかったっけ。 アニメーションの中で、青春のトラジコメディの象徴として描かれてきたその景色は、そのとき猛暑で蝉も何も死に絶えたらしく、がらんとして静かだった。

    橋を渡ると、なんだか全く違う世界に行くような錯覚を覚える。閑静な通りには、取材お断りの貼り紙があり、それだけが事件を物語っていた。いよいよか、と少しばかり緊張して歩を進めた。

 

 ところがここで、生来の方向音痴が足を引っ張る。方向音痴はGoogleマップを使おうが何しようが道に迷うのである。暑さで思考が停止していたのだろうか、馬鹿みたいにまっすぐ進んでいるうちに、よくわからない住宅地に出てしまった。時刻は五時を回っていたと思う。献花台が何時まで設営されているのかわからないが、あまり遅くなるのはまずい。

 ひとまず駅までの道を戻ってやり直そうとしていたところ(私にしては英断だったと思う)、塀の隙間から、第1スタジオの背面がちらりと覗いていた。何だか裏口のようで、そこから入っていいものだろうかと迷っていたら、近くの男が「いや間違ってないから、行きたいならさっさと行けよ」的なジェスチュアをしたので、それでもいくらか躊躇いつつ、おずおずと入っていった。このあたりを花を持って歩くのは、献花目的と宣伝して回っているようなものだ。

 

 明るい橙色の壁面とどす黒い焼跡のまだらになった建物を見上げたときの気持ちを、どう表現したらいいかわからない。ニュース番組でたびたび報道されていた通りだったし、それなりに覚悟もしていたはずだったが、いざ目の当たりにすると、あまりに剥き出しの現実に、やはり全身から力が抜けていくような気がした。建物が解体されず、ずっと原形を留めているのがまた痛ましかったのだ。それは逃げ場のない、内に籠もった暴力の痕をそのままに刻印しており、焼失したがらんどうの内部をかたくなに守り続ける外壁は、なんだか剥製のような不気味さを感じさせる。

 献花台を探したが、それらしきものは見当たらなかった。もう片付けられてしまったのだろうかと不安になった。そうでなくても、花束を手に提げてうろうろするのは気恥ずかしいのだ。勇気を出して近くのおじさんに尋ねると、親切に場所を教えていただいた。また少し歩いて、ようやくあの白いテントを見つけた。

 

 予想以上の人集りだった。マスコミの人がカメラを向けたり、やってきた人々にインタビューらしき聞き取りをしたり。こういうマスコミの報道姿勢は、特に近年では嫌われる傾向にあるように思うが、少なくともそのときインタビュアー相手に話し込んでいたアニメファンは、そうではなさそうだった。むしろ積極的に聞いてもらいたがっているように、自らが京アニ作品に受けた感銘について語り続けていた。

 近づくと、警備員らしき男性に「どうぞどうぞ」と、意外なほど明朗な歓迎の身振りで、テントの中へと導き入れていただいた。目の前にはリボン付きの立派な花束が華やかに山をなしているというのに、私の右手に握られていたのはワンコインの貧相なカーネーションにすぎないのだ。もっとよいものを買っておけばよかったと、後で恥じた。

 ぎこちない動作で花を手向け、合掌した。宗教を持たず、死後の世界も信じていない癖に、さも敬虔な信者のように振る舞う。……後ろにたくさん人が並んでいて、何か悪いことをしたかのような早足で、さっさとテントから出た。

 

 このまま帰るのもなんだか名残惜しく、置かれていた四冊のメッセージ・ノートのうち一冊を開いた。埼玉から来たらしい、小学生と思しきファンが、「けいおん!」への愛を書き記したまるみを帯びた文字の群れが見えた。一行あけて私は書き始めたのだが、何か焦っていたのか、なるべく丁寧に書こうとする書き手の意志を裏切って乱雑になっていく筆致で、つい以下のようなあまりよろしくない文章を書いてしまった。「『響け! ユーフォニアム』を作り上げたスタッフの方々に、敬意は尽きません。いつまでも待っています。」

 ……じゃあ当該作品に関わっていない犠牲者はどうなるんだとか、「待っています」という言葉から漂ってくるどうしようもないファンのエゴ感とか――今からでも修正したいところだが、そうもいかない。消しゴムだって見当たらなかったのだ(あったかもしれない)。

 言い訳をさせてもらうなら、そのときは、自らが信じてもいない死後の世界の幸福を祈るより、生前に作り上げられた作品群への尊敬を以て追悼としたかった。また何より、あの鉄塔の風景が焼きついていた。とはいえ他にいくらでも書きようはあったと思うが。

 

 斯くして私の献花(と予期せぬ聖地巡礼)は終わった。肩を落として駅への道を戻りながら、なお未練がましく何度も献花台を振り返った。文字通り老若男女が集っていた。そこは確かに無言の連帯の空間であり、哀しみと親密さとが矛盾なく同居する空間だった。死者たちがいかに多くの者たちに愛されてきたか、それを証明するために生者たちはいま集まっているのだ。その単純な事実が胸を打った。

 

 日が暮れかけていた。橋を戻りながら、夕空にいくらかシルエットになったあの鉄塔を眺めやったとき、ようやく目に涙が滲むのを感じた。思えばなんて綺麗な画面だったことか。ああいったシーンのひとつひとつが、あのスタジオ以外には提供することのできない貴重な体験だったのだ。だが、「いつまでも待つ」という取り消し不能の言葉については、せめて責任を持とうと思う。たとえ20年かかろうと、それ以上かかろうと、死者たちの紡いできた画面が生者に受け継がれるそのときを、私は待つつもりでいる。

 

2019年上半期観た映画のざっくりした感想

・順不同

・ぱっと思ったことをメモ的に書き残しただけなので、マジメな作品評価みたいな風に受け取らないでほしいです。

 

シンドラーのリスト

  3時間越えの映画で、最初から最後まで夢中で観られた数少ない作品。バッハのピアノをバックにドイツ軍兵士がぞろぞろ上がり込んでくるシーンは何度観ても圧巻。クロード・ランズマンの『ショアー』と見比べてみたかったが、こっちは何と10時間近い。今後の人生でいつか鑑賞する日は来るんだろうか……

 

アラビアのロレンス

 4時間という長大な上映時間、膨大な登場人物たち、徐々に精神を荒廃させていく主人公、彼らの営為を無情に押し流していく歴史の変遷、それら全てを呑み込んでいく化物のような広大な砂漠。途方もない映画。

 

勝手にしやがれ

 ゴダール初の長編映画にして代表作。手持ちカメラ撮影とかジャンプカットとか、今ではそんなに驚きもしないが、当時は革新的だったらしい。

 本作に限らずヌーヴェル・バーグはなんか難しい感じがしてニガテ。『気狂いピエロ』はなんとなく楽しめたけど。

 

自転車泥棒

 イタリア・ネオレアリスモの代表的作品。何だかんだ最後は何とかなるだろと思っていたら、特に何の救いもなかった。ラストシーンのぎゅっと繋がれた手が切ない。先の見えない悲惨さの中に仄めく優しさ。

 

灰とダイヤモンド

 アンジェイ・ワイダのいわゆる抵抗三部作の一作。無知で頭が悪いので筋を追うのに必死だった。混乱した政治状況下における人間性の希求と挫折。

 

スミス都へ行く

 キャプラ映画は大好き。シニカルな時代に、単純に理想を歌い上げる映画がむしろ胸を打つ。

 

オペラハット

 面白かったけど、暴力癖は何とかした方がいいと思った。

 

君の名前で僕を呼んで

 北イタリアの美しい夏と共に去りゆく恋の行方。俺もこんな教養的で激しい恋がしたかったなあ。エリオ役のティモシー・シャラメが美少年過ぎてビビる。

 

『ファーゴ』

 映画史に残る名画らしいが、途中で寝てしまってよく覚えていない。

 

俺たちに明日はない

 アメリカン・ニューシネマの先駆。ヒロインの母親とのやりとりが何だかつらかった。

 

戦艦ポチョムキン

 『市民ケーン』とも肩を並べる映画史の代表的作品。「オデッサの階段」のシークエンスにはやはり言葉を失う。

 

英国王のスピーチ

 久々に映画で泣いてしまった。吃音というごく個人的な問題を、第二次大戦直前という時代背景のもと、立憲君主制下における「王」のありようというテーマと絡めて描いており、知的にも極めて興味深かった。

 

ハンナ・アーレント

 取り上げている題材自体には興味を惹かれるものの、あんまり面白いとは思えなかった。夫婦愛とかハイデガーとの関係とかハンス・ヨナスとの決別とか、あれもこれもと要素を並べているけれども、なんだか散漫で、映画というよりアーレント基礎知識講座みたいな印象が強かった。特にハイデガー関係はとってつけたような印象が強く、これじゃあそもそもなんでアーレントが彼に惹かれたのかよく分からない。

 

フォレスト・ガンプ

 これも世評のわりにはいまいちな印象だった。とりわけヒロインのジェニーの扱われ方は、個人的にうまく呑み込めなかった。

 

アメリカン・スナイパー

 あまりの幕切れに暫し唖然とし、それからようやく本作がノンフィクション作品であることを思い出すなど。現実は非情。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー

 実は観たことがなかった超メジャー映画。勿論大いに楽しめたけど、若い頃の母親に惚れられながら何とか父親とくっつけようという、実は結構ダーティな話でもあった。

 

『波止場』

 エリア・カザン監督作。俗悪な搾取階級と、負け犬ひとりの孤独な戦い。勇気を持って立ち上がる労働者たち。現代の視点から見るとちょっと大時代的な気もするが、やはり率直に感動した。

 

『第三の男』

 光と影、斜めのアングル。かっこいい。

 

秋日和

 『晩春』の「父」を「母」に置き換えて撮り直したような映画。『晩春』の方が私は好きだけど、トリックスターのオヤジ3人衆は面白い。

 

『早春』

 人間が死んでいくこと、死者が否応なく忘却されていくことなど、爽やかそうなタイトルに反して、何だか死のイメージの色濃い不吉な作品のような気もした。

 

麦秋

 『麦秋』と『浮草』はぶっちゃけ『東京物語』よりずっと好き。

 

『浮草』

 大傑作。小津作品の中でも、日本映画の中でもいちばん好き。「赤」の色彩をこんなに美しく艶めかしく映した映画は他にないはず。定住する者と旅を運命づけられた者、静と動の対照、旅芸人という生き方にプライドを感じながらも息子にはそうあってほしくないと思う心理、それに起因する親子のすれ違い、一座の解散が決まったときの役者同士の温かなやり取り、中村鴈治郎京マチ子が雨中に罵り合う名高いシーンなど映画を構成する何もかも傑出して素晴らしい。

 

『リアリティのダンス』

 初めてのホドロフスキー。よく知らないけど、何だかフェリーニを想起した。超現実主義的でシュールな表現が続くが、実のところは父権の崩壊というごく古典的なテーマを描いたかにも見える。 

 

『天使にラブ・ソングを』

 文句のつけようのない大ハッピーエンド。やっぱりこういうのがいい。

 

『夜と霧』

 アウシュヴィッツ強制収容所を取材したアラン・レネのドキュメンタリー的作品。言うまでもなくえぐい。フランクルの著作の邦題の元ネタ。

 

『意志の勝利』

 リーフェンシュタールの、良くも悪くもあまりに有名な作品。地の果てから無限に沸き上がってくるかにすら見える鉄の軍隊たち。そういえば『シン・ゴジラ』に対して、これは権力の美学化だリーフェンシュタールだと騒いでいた批評家がいたけれども、やっぱり程度の差があって『シン・ゴジラ』はリーフェンシュタールほど美しくはないし、従ってリーフェンシュタールほど悪質でもないと思う。

 

ラストタンゴ・イン・パリ

 生々しすぎて観るのがきつかった。

 

風と共に去りぬ

 何が良いのか分からないどころか、終始不快だった作品。南北戦争前後の南アメリカを舞台とし、スカーレット・オハラという、出自と美貌以外に何の取り柄があるのかわからない我儘で自己中心的な奴隷制支持の人種差別主義者が、他人様の旦那に横恋慕して周囲に迷惑をかけまくる。前編のラストはAs God is my witness, I'll never be hungry againという名台詞で締め括られ、ようやく彼女も成長し始めるのかなと思ったら、後編でも使用人に暴力を振るい、レット・バトラーに金の無心をした挙句に逆ギレするなど醜態を晒し続ける始末。こんな性格なので結婚生活がうまく行くはずもなく、惨めに棄てられ、最後は故郷の土地タラに縋りつきながら、まあ今後のことはまた今度考えよ、みたいなことを言いながら本作は幕を下ろす。何これ?

 

アマデウス

 確かに、多少なりともクリエイティヴな方向を志した人なら誰でも「刺さる」映画だとは思うけど、才能は神からの贈物であり、音楽は神への捧げ物だというキリスト教ベースの芸術観のもとに本作が展開されていることを念頭に置いておく必要はある気がする。つまりドストエフスキーとかニーチェとかと同じで、我々みたいな非キリスト教圏の人間には、本当の意味では(本作における)サリエリの「嫉妬」を理解することはできないんじゃないかな、とも思った。

 

ラ・ラ・ランド

 2度目の鑑賞。俺は好き。

 

『劇場版響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』

 俺は好き。そういえば今年はまだアニメ映画を一本しか観られていない。

 

 

 

 

『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』とひとつの個人的な記憶

(ネタバレに一切配慮していないのでお読みになる際は御注意ください)

 

 大学一回生の頃、深夜のバラエティ番組で、名門の吹奏楽部を追ったドキュメンタリー的なコーナーをやっていた記憶を、ふと思い出しました。まずはその話から始めます。

 かつての名門校が、昨年は潸々たる成績。今年こそは頑張って、去りゆく先輩たちに堂々と花束を渡すんだと意気込む女の子。いやがうえにもテレビ向きの、盛り上がるシチュエーションです。勝利のみを求め、彼女たちは全てを擲って練習に没頭します。お決まりのやつですね。かなり記憶が曖昧なんですが、『響け! ユーフォニアム』の劇伴も使われていた気がします。

 ところが現実は小説やアニメのようにはいかず、彼女たちはあっけなく予選落ち。すると、これまで熱っぽく彼女たちの青春を追い続けていた番組は、やにわに冷淡になり始めます。泣き崩れる彼女たちの後ろ姿を手持ちカメラでいささか不躾に撮りながら「彼女たちの夢は叶わなかった……」とあまりに素っ気ないナレーションを挟み、ぶつ切れのゴミみたいな編集でそのコーナーは幕を下ろしてしまうのです。ワイプで映るタレントさんたちが、どう反応していいかわからない的な微妙な表情をしていたのも印象的。私は陰キャなので部活などに執心している人間などうっすら見下していたんですが、それでもこの番組を観てしばらくは、そうしたある報われなさについて、あてもない思惟をめぐらしてしまったのを覚えています。

 

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 ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

 ……いいかげん本題に入りましょう。『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』という作品は、ごく大雑把に言えば、〈呼称〉〈闘争〉〈継承〉の三つの主題によって構成されています。

 まず〈呼称〉。人の名前を呼ぶことです。当たり前のことですが、「誓い」ではこのことにひとかたならぬ意味が付与されているわけです。これは冒頭から明らかであり、例えば一年生の月永求は名字で呼ばれることを激しく嫌い、名前で呼ぶように訴えます。同じく一年生の鈴木美玲は「W鈴木」とか「みっちゃん」とかいった呼ばれ方を拒絶し、そんな彼女はどうしても孤立してしまいます。また三年生の加部友恵の呼び方も「加部先輩」から「加部ちゃん先輩」へと移り変わります。その後彼女はある重大な決心をするわけですけれども。

 なぜ〈呼称〉の問題がこれほど重要になるのかと言えば、それは勿論、1年生の加入による彼女たちの関係性の変化があるからです。これはこの映画のひとつのメインプロットと言ってもよいでしょう。呼び方を決めるというのは他人との距離感を測ることでもありますから。いくら実力主義って言ったって、人の集まりなのだからこのへんは避けて通れない。

 それにしても、美玲をめぐるエピソードは興味深いものがあります。美玲は実力があるので、自主練なんかせずにさっさと帰宅してしまいます。一方で同じく鈴木姓のさつきは自主練に積極的で、先輩たちをどんどん味方につけていく。つまり自主練というものが、文字通り技術向上のための自主的な訓練というより、むしろ周囲と溶け込むための儀礼的習慣として捉えられているわけです。これは結構鋭い観察だと思います。後の努力と結果をめぐる問題にも繋がるところですね。

 久美子は指導者として、この問題を解決しなければなりません。それは次期会長就任へのひとつのイニシエーションでもあったでしょう。ようやく〈呼称〉の問題を乗り越えたとき――月永求が名前で呼ばれるようになり、美玲が「みっちゃん」の呼称を受け容れたとき――、次なる主題、〈闘争〉の主題が本格的に顔を覗かせ始めます。

 

 〈闘争〉というのはいつも勝者と敗者を生みます。報われた努力があり、報われない鍛錬がある。久美子たち北宇治は、まあ全国大会で負けはしましたけれども、概ね勝者としての物語を歩んだと言ってよいでしょう。しかし、もしかしたら負けていたかもしれない。もしそうなっていたら……。

 本作初登場の一年生、久石奏の主張は単純なものです。先輩たちが麗奈のソロを認めたのは、結果が伴ったから。もし全国に行けていなかったらどうでしょう。高坂先輩の立場はどうなっていたのかしら。現に私はそうだった。実力主義なんて欺瞞。……言われてみれば当たり前ですが、実力主義イデオロギーというのは将来的にしかるべき結果を出すということ以外に正当性の根拠を持っていません。それに引き替え、かつて北宇治高校吹奏楽部を支配していた縁故主義は、やはり強い。〈呼称〉の議論で述べた通りですが、組織は人間の諸関係の集合によって形成されるのですから、これは当然です。そして何より、このことを指摘してみせる彼女のリアリストとしての不敵な冷笑ぶり。彼女の存在はこの映画の白眉です。

 しかし、そんなのは所詮、小さな問題に拘泥しているに過ぎないとも言えます。もっと他に大事なことがあるのではないのか。……久美子の説諭は、要はこういうことを言っているのだろうと私は思います。

 再び1期の再オーディションの場面に立ち返ってみましょう。そこで露呈されるのは実力主義の挫折です。多数決で決めるというのは、制度的には、縁故主義で決めると言っているのと同じことです(無論、滝先生は彼女たちにそうではない何かを期待しているわけですが)。結果的にはほとんどの者が態度を決めかねて、この勝負は決着がつきません。実力主義縁故主義というイデオロギー対立それ自体が行き詰まりを露呈したとき、香織先輩の「吹けないです」の一言が出てくるわけです。そして香織先輩が「上手ですね」と言われて「上手じゃなくて、好きなの」と答える人間であることが、直後のシーンに示されます。

 つまり「好き」だから譲ったんですね。だから、そこに描かれているのは卑小なイデオロギーの勝った負けたではなく、それを越えたところにある良い音への無償の肯定であり、彼女たちの音楽が何かの従属物であることをやめる瞬間です。久美子はそれを目の当たりにしたが故に、次の回で「うまくなりたい」と叫ぶことになります。良い音楽をひたむきに欲望し続ける今・ここの意志。それはコンペティションとしての〈闘争〉の中にありながら、それを越えて彼女たちを突き動かす強烈な希求です。久美子は一年間の〈闘争〉を経て、それをはっきりと掴んでいる。だから彼女は奏のリアリズムに対峙することができたわけです。このあたり、大音量の劇伴に加えて雨まで降らせるのでやはり若干の演出過剰感があります*1けれども、やはり素晴らしいと言わなければならないでしょう。

 〈継承〉はもう言うまでもないですね。エンドロール前のシーン。頑張ったって意味なんかなかったんだと相変わらずシニカルな言葉を並べる奏に、久美子は悔しいかと聞く。奏は悔しいと言って遂に涙します。久美子から奏に継承されるのは悔しさです。その後久美子が部長になったことを示唆する場面を以て〈継承〉の主題は再確認され、この映画は幕を下ろす。そこには無論、部長という〈呼称〉の獲得があり、奏の涙が示唆する新しい〈闘争〉の予感が描き込まれています。

 

 ……こう言っておいて何ですが、正直に申し上げれば、「誓い」はひとつの作品としては、構成を欠いた散漫な印象の拭えない映画です。それにもかかわらず私が感銘を受けたのは、全く個人的な理由からです。まず、ごく単純にこのシリーズのキャラクターたちの物語にもう一度立ち会えたことが嬉しかった。みぞれと希美の音楽を介した美しい交歓を見られたこと。あがた祭りで秀一と一緒にはしゃぐ久美子を見られたこと。思えば満面の笑顔を見せることが少ないキャラクターだったように思いますし、久美子。

 それにこの映画は、私の中でずっとひっかかっていた報われない鍛錬というものに、きっと慰めではなかろう何かを見出させてくれたように思います。私は「誓い」を、そうした私的な思い入れ抜きに見ることができません。

 

*1:これは近年京アニの宿痾ともいうべきところですね。

21歳童貞が読む恋愛小説

 

 実家で寝転がって『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』なる漫画を読んでいたら母親に岩の裏に沢山くっついてる気持ち悪い虫を見るような目で見られたニート予備軍の僕ですが、冷静に考えてみれば確かにこんなタイトルの漫画を21歳童貞が読んでる光景が相当グロテスクなのは否定できません。でもいいじゃん。昔から『ローマの休日』とか好きだったし、『君の名は。』とか『ラ・ラ・ランド』でうるっとくるような人間なんです。

 というわけで(?)、今回は童貞なりに読んできた恋愛小説の感想でも書き留めておこうと思います。とはいえシェイクスピアだのスタンダールだの挙げても古典の価値を再確認するばかりであんまり面白くない気がするので、現代日本文学、存命作家かつ一定以上の知名度を持つ小説に限定して書棚から適当に選出。なお順不同です。

 

1.『ノルウェイの森村上春樹

 言わずと知れた国民作家の出世作学生運動さかんな60年代の大学という背景のもと、主人公の「僕」(ワタナベ)と心を病んだヒロイン直子、大学で出会った活発系少女緑の三人の関係を中心に、過ぎゆく青春がリリックに描かれます。日本で一番売れた小説のひとつであり、多少なりとも本を読む人なら誰でも一度は手に取ったことがある作品でしょう。

 とはいえ、本作が村上春樹の小説の中で高い地位を占める作品かと言われれば、些か疑問もあります。小説的完成度においては『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、文学的挑戦としては『ねじまき鳥クロニクル』に劣ると感じる方は多いのではないでしょうか。珍しくリアリズムの文法で書いたと作者自身は語っていますが、例えば「僕」が直子の療養所に向かう場面は、異界に足を踏み入れるような、何処かこの世ならざる雰囲気を宿しており、このへんは後の『海辺のカフカ』で出てくる森の奥の世界などにも通ずるイメージだと思います。

 僕がこの作品を未だに愛しているのは、ひとえに最終パラグラフのシンボリックな見事さ故です。「どこでもない場所」から緑を呼び続ける「僕」。彼はまさに生(緑)と死(直子)のあわいにいるんですね。と同時に、読者は冒頭の「その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいった」という一文との見事な照応を見出さざるを得ません。本当に素晴らしい。終りよければ全てよし。傑作。

 

2.『私の男』桜庭一樹

  孤児の腐野花とその養父、淳悟との性愛と別れを描く。直木賞受賞作。父娘の近親相姦という主題は、やはり本人も影響を受けたと語る倉橋由美子『聖少女』に負うところが大きいのでしょうか。

 この小説は、花が別の男性と結婚するという結末から、その出会いへと遡っていく奇抜な構成によって成功を収めています。時を遡るにつれて、舞台も退廃的で世俗的な東京から、氷に閉ざされた「北」へと移り変わり、禁断の関係を不気味に演出します。

 淳悟のあの薄気味悪さと隣り合わせの危険な魅力は同性の僕でもちょっと惚れ惚れしてしまうところがあります。冒頭の赤い傘の描写からして良い。花の恋敵・小町さんなんかも僕は好きですね。この小説の美しさと醜悪さを象徴するような人物。あんなずさんな犯罪がずっと発覚しなかったってのは無理がある気もしたけどまあいいや。

 べとついた性愛自体は読み慣れてるつもりですが、でも流石に「お父さぁん」「おかあさぁん」「はぁい」みたいなやり取りが延々続くあたりはちょっときつかったです。まあこのきつさまで含めて魅力なのですが。

 

3.『ナチュラル・ウーマン』 松浦理英子

  天才・松浦理英子の恐らくは代表作。漫画家の蓉子と彼女を取り巻く三人の女性をめぐる恋愛物語。

 同性愛、嗜虐と被虐とのよじれた関係を扱いつつ、一切の贅肉のない冷たく引き締まった(解説の多和田葉子氏曰く肉体美を思わせる)文体が、女たちの愛と挫折を描いていきます。僕が惹かれるのはこの文体の知的な強靱さとでも呼ぶべきものなんですね。そこには観念的な思弁や世間様が私たちをどう思うかとかいったなよなよした思念はなく、みずからの性を主体的に希求していく真摯さだけがあります。「マイノリティ文学」とかいうレッテルを貼って通過することは許されない必読の傑作。

 個人的には夕記子が掃除機の尖ったパーツ(?)で容子の肛門を突っつく場面が妙に印象に残っています。そんなプレイがあるのか……

 

4.『君の膵臓をたべたい』住野よる

 「小説家になろう」出身の作品。類型発行部数200万部を誇り、二度に渡り映画化された大人気作。余命僅かの快活少女・山内桜良と陰キャの「僕」との交流を描きます。

 一見してセカチューとか『恋空』みたいな10年ぐらい前に流行った「純愛ブーム」に連なる作品に思えますが、本作はあの手の「純愛」が陥りがちだった湿っぽい感傷主義や恋愛賛美をあえて遠ざけ、からりと爽やかに、ユーモラスな雰囲気に仕上げた点で強い魅力を掲げています。

 とりわけ桜良と彼女の親友・恭子との関係が美しく、その恭子と「僕」との和解によって物語が幕を下ろすというのも良い。何というか、「感動」「泣ける」というよりも、彼らを応援したくなるような優しい微笑ましさがあるんですね。評論家みたいな人たちはこういうの嫌いそうだけど、僕は好きです。

  ……でもクライマックスの「うわあああああああああああ」みたいな泣き方は流石に頂けないと思った。

 

5.『マチネの終わりに』平野啓一郎

 スランプ中の天才ギタリスト蒔野(38)とテロに遭遇しPTSDを発症する通信社記者洋子(40)との大人の恋愛を、震災や難民など現代的なテーマをまじえつつ描く。作者の平野啓一郎氏も大変なインテリの方で、その佇まい通りこの作品もまた非常に教養的な雰囲気を身に纏っています。

 ……なんですが、正直言ってこれはあんまり面白くなかったです。

 というのも、ヒロインの洋子がちっとも魅力的に見えないんですよね。オックスフォードを出てコロンビアの大学院を出て5カ国語を話すエリートってのはまあいいんですが、そのわりには恋敵のあんなテキトーななりすましメールにあっさり引っかかって、本人に確認もしないで「あなたとは続けられない」とか言い出したり。

 しかもこの人物を持ち上げるために見え透いた小説的作為があれこれなされるのも辟易。リチャードやヘレンも殆ど洋子の清廉潔白さを際立たせるためだけに出てくるような人物だし、また恋敵の早苗も、前述の見え見え偽装メールを送りつけたり洋子のチケット購入を妨害したり、ありえない奇行を繰り返します。

 でもこの小説の主眼は、何と言っても40代という年齢がもたらす不安にあるのであって、僕みたいなガキが読むのはそもそもお門違いなのかもしれません。中高年にさしかかって、ある種の破滅的な衝動を感じつつある『ヴェニスに死す』症候群(らしい)のみなさんは是非是非。

 

 

『true tears』の何がすごいのか

 『true tears』が好きです。P.A.Works作品どころか、これまでに見た全てのアニメ(劇場用アニメ含む)の中でも、いちばん好きと言い切れますし、恐らく今後どのようなアニメ作品を目にしても、ディズニーやピクサーがいかにグローバルな高度映像技術と大資本を投下しようとも、私の中でこの「いちばん」が脅かされることはまずないだろうとも思っています。

 もっとも、これはあくまで「いちばん好き」なのであり、「いちばん優れている」とは必ずしも思っていません。作画は全編通して高レベルと呼びうる水準に収まっていますが、同世代の他のアニメと比べても飛び抜けて凄いというほどではありません。主人公の高校生眞一郎が、幼馴染で同棲中の湯浅比呂美(実の妹ではないかとの疑惑浮上中)と学校で知り合った石動乃絵のふたりから好意を寄せられフラフラ、というプロットも、それほど特殊なものではなく、むしろゼロ年代にありふれていた青春ラブストーリーの一類型として受け取られるでしょう。また後半の物語展開はやや混乱が見受けられ、その突飛とも言える演出も含めて、どこかしらいびつな印象を見る者に与えます。まあしかし、否そうであるからこそこの作品は素晴らしいのですが。

 

 さて、じゃあこの作品の何が凄いのかといえば、ひとことでいえば詩的であるということです。詩的であるといっても色々あるのですが、たとえば雪とか鶏とか木の実とか、我々が見慣れた様々な物事を、凝りに凝った語り口で、作品世界の中に美しく描き出そうとしたことが挙げられます。

 これではよくわかりませんね。私にも実はよくわかっていないのですが(「好き」を言語化することの難しさを私はいつも痛感しています)――ポール・ヴァレリーは「歩行と舞踏」という喩えで散文と詩の違いを表現しています。散文=歩行は移動のためになされるものであり、読者を論理的を対象へと導くのに対して、詩=舞踏は踊ることが目的であり、つまりは言葉を操ることそれ自体の美しさをこそ追求しようとする営みであると。

 通常、雪だのマフラーだの何だのは、予め設計された「物語」の進行を円滑にし、あるいは装飾するために配置されるものです。しかし『true tears』の場合、むしろそうした小道具、細部それ自体が、様々なイメージや寓意を宿し、それらの絡み合いや連なりに導かれて「物語」が描き出されるというか……これも大概抽象的な話ですが。

 

 まあ具体的な表象に目を向けてみましょう。たとえば『true tears』において重要なモチーフのひとつとなるのが「雪」なのですが、これは乃絵の暗喩として描かれるんですね。「のえがすきだ」という眞一郎の告白は雪の上に書かれますし、「雪」は空から落下するものなので、乃絵が木から落ちてくる描写と重ね合わせることもできます。加えて乃絵は4話において、(眞一郎の心象風景として)「雪を降らせる天使」として表象されています。天使(的な存在)が地上に墜ちてくるわけですから、これは一種の堕天であり、乃絵の天上的なイノセンスの喪失を含意しているかにも見えます。

 

 

 一方で比呂美にとって「雪」は、義母との確執の象徴であり、恋敵の象徴です。彼女にとっては「雪」は自らを眞一郎から疎外する呪いとなります。義母に眞一郎との血縁関係を仄めかされた日から、今まで好きだった雪が嫌いになったと語る比呂美に、石動純(諸事情により好きでもないのに付き合うことになったイケメン。乃絵の兄)は「好きなものが好きでいられなくなるってキツいよな」と告げますが、では純が「好きでいられなくなる」ものとは……という感じで、これは後々の展開の伏線になります。

 8話での比呂美の「雪が降っていない街(に連れて行って欲しい)」という暗喩的な台詞は、乃絵からの――また義母からの――、自らを抑圧する存在たちからの逃走として捉えられます。その後バイクは転倒・炎上し、この逃走劇は失敗に終わるわけですが、考えてみれば「火」は「雪」を融かすものですから、その後に比呂美が義母と和解し、眞一郎に急接近しはじめ、恋人の地位を乃絵から奪い取るのも、こうしたイメージとの連関が窺えます。そういう点からいえば、「雪」は融ければ水になるわけですので、最後に乃絵が涙を流すのも、「雪解け」のイメージで捉えることができます。

  

 「雪」というありふれた表象に、様々な意味が宿る。長くなるのでここでは書きませんけれども、鶏にも木の実にもマフラーにも、同じことが言えるでしょう。日常的な事物を詩的なイメージへと変容させ、それらが織物のように美しく交錯していく――『true tears』の素晴らしさとは、こういう所にあるのだろうと思います。

 

アニメ版『君の膵臓をたべたい』感想

 

 『君の膵臓をたべたい』観に行ったので以下感想(あと考察もどき)を述べます。いつもの如くネタバレにはお構いなしなので要注意。

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 © 住野よる双葉社  © 君の膵臓をたべたい アニメフィルムパートナーズ

https://youtu.be/zp162UDrtyA

 

 本作は住野よる氏による同名の青春小説をアニメ化したもの。既に実写映画が昨年に公開されており、二回目の映画化となります。大人気ですね。*1

 やはりデートムービーということなのか、劇場にはいかにもリア充っぽいカップルが沢山来ていて、中盤からずっと泣いてる女の子がいたりと、陰キャアニメオタクとしてはかなりアウェー感がありました。上映終了後は彼らリア充集団から「良かったね」とか「泣いちゃった」みたいな感想がぽつぽつ聞こえてきて、なかなか好意的な感じの反応だったように思います。

 

 さて映画の内容。根暗男子の「僕」が、病院で日記を拾うところから物語は幕を開けます。その日記(「共病文庫」と呼ばれる)の持ち主はクラスの人気者、山内桜良。彼女は「僕」にこう告げます――肝臓の病気により、自分はもう長くないと。そして「僕」は、半分なし崩し的に彼女の「死ぬ前にやりたいこと」に付き合わされることになる……というのがあらすじ。

 既にお分かりかと思いますが、この映画、ここまでの筋立てだけ見ると、何ともベタベタの難病ものメロドラマとも言えます。『余命一ヶ月の花嫁』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかの系譜。

 しかしながら、作者ももちろんこの点には自覚的です。今作では大きく分けて三つの「ひねり」を加えることによって、既存の恋愛悲劇の類型性を逸脱しようとする試みがなされています。本記事では、この点について少しばかり注目してみようと思います。

 

 まず一つ、非常に外形的なレベルの話ですが、桜良の死因が実は病気ではないということです。彼女は限られた命を全うすることさえできない。これはかなり衝撃的かつ虚無的な展開で、こうした筋立てを採用することには、かなりの勇気が必要だったと思います。受け手の意表を突くにしても、「病気が予想外に早く進行して死ぬ」とか「実は犯人はあの元カレ」とか、色々他にやりようはあったはずです。しかしこの物語においては、そうした「死」に対する物語的な意味付けや虚飾の一切を拒絶して、ただ「誰にでもあった可能性」としてそれを描こうとする。この展開に対する解釈は色々あるでしょうが、僕としては「死」の、普遍的かつアンチクライマックスな性質をこそ描きたかったのかな、という気がしました。

 とはいえ(実写映画のときも思いましたが)この展開をあまり良いとは思えません。伏線があるとはいえ、あまりにも偶然性に依拠しすぎだと思うからです。たまたまあの待ち合わせの日に、あのメールを送ったタイミングで、たまたま通り魔がやって来て死ぬ、という不運な「偶然」。筆者の家に突然美少女が押しかけてきたり、気紛れで買った宝くじ1枚で3億円ゲットしたりするのと同程度の「偶然」でしょう。「負のご都合主義」というか何というか……。

 

 この辺は色々言いたいことがあるんですが、まあそれは置いといて、二つ目。「僕」と桜良の関係を、あくまで恋愛関係として描かなかった点です。

 このことは、あの雨のシーンで「僕」が初めて年相応の性衝動をあらわにするあの場面によくあらわれています。桜良は面白半分に「僕」を誘惑しますが、冷静さを欠いた「僕」が桜良を押し倒したとき、彼女は泣いて嫌がってしまう。それで「僕」は我に返り、彼女の家から逃げ出す――この危うさのたちこめるシークエンスは映像としても秀逸だなと思うのですが(あと「僕」の童貞丸出しの感じが面白い)、何が「危うい」かって、あの場面こそ、二人の関係が変質してしまうか否かの、ぎりぎりの分水嶺だったからです。桜良はこの無二の関係の「恋愛」への変貌をこそ畏れ拒絶したとも言えるわけです。

 また二人は病院で抱擁を交わしますが、直後に桜良は親友の恭子(後述しますがこのキャラは最高に良い子)に対しても全く同じように抱きつくので、これも恋愛のサインにはなりえません。

 確かに一緒にいるとときめくし、激しく求め合っているけれど、恋愛ではない――この描き方は、とても良かったと思います。「僕」が彼女から受け取ったのは、他者との交わりという人生観であり、ある意味では桜良という人間の生そのものであって、それは「恋」などというものに矮小化されるべきものではないからです。

 

 三つ目。これこそ最も重要なポイントだと思うのですが、「恭子」というキャラの存在が挙げられます。彼女は桜良の親友、病気がちの桜良をいつも気にかけて、彼女にくっついている(ように見える)「僕」をひどく毛嫌いしています。ですが恭子は、桜良がもうすぐ死ぬことを知らない。繊細な彼女が心配しすぎるのを心配して(変な日本語)桜良が教えてあげないからです。

 桜良の死後、「僕」から初めて「共病文庫」を手渡された恭子は、その時初めて彼女の余命のことを知り、涙を流しながら「僕」を厳しく詰ります。――教えてくれていれば、部活も学校も辞めて、ずっと桜良の傍に居たのに。

 けれども、まさしく恭子がそういう人間であったからこそ、桜良は病気のことを教えるわけにはいかなかったのです。お互いのことをあまりに深く想うがゆえに、残酷な真実を最期まで共有することができない。何度観ても切なく美しい関係だと思います。

 

 しかし大事なのはここからです。前述したとおり「僕」と恭子は深く断絶し、対立する関係として描かれています。一方で、共通の友人である桜良は、二人に「仲良し」であってほしいと語ります。そして彼女の死後、「僕」はその遺志を実現すべく恭子を追いかけ、「許してほしい」「いつか友達になってほしい」と呼びかける。エンドロールの後、恭子が「僕」にガムを寄越す(一度でもこの物語に触れた方なら言うまでもないと思いますが、「ガムの手渡し」はこの物語で他者との繋がりを示す機能を帯びています)場面を以て物語は締め括られる……

 ここから見えてくるのは、実はこの作品の主題は「僕と恭子」の関係にこそあるのではないか、ということです。性別も性格もクラスに於ける立ち位置も何もかも違う、徹底的な他者としての両者。その二人が、桜良という死者の存在を介して「仲良し」になる――そのとき、この映画は、この手のメロドラマが陥りがちだった恋愛至上主義や「君と僕」の閉鎖的な関係の域を越えて、より普遍的な他者との交流を物語ることに成功しています。

 兎にも角にも、「恭子」というこのうえなく魅力的な少女。彼女の存在こそが、この映画を感動作たらしめていると思います。

 

 色々書きましたが、総体的には結構楽しめた映画でした。何より「僕」と桜良の過ごした時間の幸福を、観客も共感、共有できるような説得力がちゃんとあった気がします。ときに漫才みたいな2人の掛け合いは聞いていて楽しかったですし、あのホテルでのドキドキ感と残酷さの入り交じった感じも好きでしたし。まあ、前述したような不満点はやはりありますし、『星の王子さま』になぞらえた幻想的なシークエンスはアニメならではの演出と言えるかも知れませんが、ちょっとしつこく感じてしまったり、「傑作!」とはなかなか言いにくい感じではあるのですが。

 

 あと、個人的な好みを言えばキャラデザがすごく良かったです。桜良も恭子も超かわいい。主人公の「僕」はネクラ感とイケメン感がうまい具合にブレンドされた感じ。

 

*1: 実写映画版も一応観ましたが、こちらは正直にいえば「うーん……」という感じでした。12年後に高校教師になった主人公が、教え子に過去を語るという形式を取っているのですが、これがどうもしっくりこなかった気がします。もちろん悪い映画ではないですが。