2019年上半期観た映画のざっくりした感想

・順不同

・ぱっと思ったことをメモ的に書き残しただけなので、マジメな作品評価みたいな風に受け取らないでほしいです。

 

シンドラーのリスト

  3時間越えの映画で、最初から最後まで夢中で観られた数少ない作品。バッハのピアノをバックにドイツ軍兵士がぞろぞろ上がり込んでくるシーンは何度観ても圧巻。クロード・ランズマンの『ショアー』と見比べてみたかったが、こっちは何と10時間近い。今後の人生でいつか鑑賞する日は来るんだろうか……

 

アラビアのロレンス

 4時間という長大な上映時間、膨大な登場人物たち、徐々に精神を荒廃させていく主人公、彼らの営為を無情に押し流していく歴史の変遷、それら全てを呑み込んでいく化物のような広大な砂漠。途方もない映画。

 

勝手にしやがれ

 ゴダール初の長編映画にして代表作。手持ちカメラ撮影とかジャンプカットとか、今ではそんなに驚きもしないが、当時は革新的だったらしい。

 本作に限らずヌーヴェル・バーグはなんか難しい感じがしてニガテ。『気狂いピエロ』はなんとなく楽しめたけど。

 

自転車泥棒

 イタリア・ネオレアリスモの代表的作品。何だかんだ最後は何とかなるだろと思っていたら、特に何の救いもなかった。ラストシーンのぎゅっと繋がれた手が切ない。先の見えない悲惨さの中に仄めく優しさ。

 

灰とダイヤモンド

 アンジェイ・ワイダのいわゆる抵抗三部作の一作。無知で頭が悪いので筋を追うのに必死だった。混乱した政治状況下における人間性の希求と挫折。

 

スミス都へ行く

 キャプラ映画は大好き。シニカルな時代に、単純に理想を歌い上げる映画がむしろ胸を打つ。

 

オペラハット

 面白かったけど、暴力癖は何とかした方がいいと思った。

 

君の名前で僕を呼んで

 北イタリアの美しい夏と共に去りゆく恋の行方。俺もこんな教養的で激しい恋がしたかったなあ。エリオ役のティモシー・シャラメが美少年過ぎてビビる。

 

『ファーゴ』

 映画史に残る名画らしいが、途中で寝てしまってよく覚えていない。

 

俺たちに明日はない

 アメリカン・ニューシネマの先駆的作品。ヒロインの母親とのやりとりが何だかつらかった。

 

戦艦ポチョムキン

 『市民ケーン』とも肩を並べる映画史の代表的作品。「オデッサの階段」のシークエンスはやはり言葉を失うような出来映え。

 

英国王のスピーチ

 久々に映画で泣いてしまった。吃音というごく個人的な問題を、第二次大戦直前という時代背景のもと、立憲君主制下における「王」のありようというテーマと絡めて描いており、知的にも極めて興味深かった。

 

ハンナ・アーレント

 取り上げている題材自体には興味を惹かれるものの、あんまり面白いとは思えなかった。夫婦愛とかハイデガーとの関係とかハンス・ヨナスとの決別とか、あれもこれもと要素を並べているけれども、なんだか散漫で、映画というよりアーレント基礎知識講座みたいな印象が強かった。特にハイデガー関係はとってつけたような印象が強く、これじゃあそもそもなんでアーレントが彼に惹かれたのかよく分からない。

 

フォレスト・ガンプ

 これも世評のわりにはいまいちな印象だった。とりわけヒロインのジェニーの扱われ方は、個人的にうまく呑み込めなかった。

 

アメリカン・スナイパー

 あまりの幕切れに暫し唖然とし、それからようやく本作がノンフィクション作品であることを思い出すなど。現実は非情。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー

 実は観たことがなかった超メジャー映画。勿論大いに楽しめたけど、若い頃の母親に惚れられながら何とか父親とくっつけようという、実は結構ダーティな話でもあった。

 

『波止場』

 エリア・カザン監督作。俗悪な搾取階級と、負け犬ひとりの孤独な戦い。勇気を持って立ち上がる労働者たち。現代の視点から見るとちょっと大時代的な気もするが、やはり率直に感動した。

 

『第三の男』

 光と影、斜めのアングル。かっこいい。

 

秋日和

 『晩春』の「父」を「母」に置き換えて撮り直したような映画。『晩春』の方が私は好きだけど、トリックスターのオヤジ3人衆は面白い。

 

『早春』

 人間が死んでいくこと、死者が否応なく忘却されていくことなど、爽やかそうなタイトルに反して、何だか死のイメージの色濃い不吉な作品のような気もした。

 

麦秋

 『麦秋』と『浮草』はぶっちゃけ『東京物語』よりずっと好き。

 

『浮草』

 大傑作。小津作品の中でも、日本映画の中でもいちばん好き。「赤」の色彩をこんなに美しく艶めかしく映した映画は他にないはず。定住する者と旅を運命づけられた者、静と動の対照、旅芸人という生き方にプライドを感じながらも息子にはそうあってほしくないと思う心理、それに起因する親子のすれ違い、一座の解散が決まったときの役者同士の温かなやり取り、中村鴈治郎京マチ子が雨中に罵り合う名高いシーンなど映画を構成する何もかも傑出して素晴らしい。

 

『リアリティのダンス』

 初めてのホドロフスキー。よく知らないけど、何だかフェリーニを想起した。超現実主義的でシュールな表現が続くが、実のところは父権の崩壊というごく古典的なテーマを描いたかにも見える。 

 

『天使にラブ・ソングを』

 文句のつけようのない大ハッピーエンド。やっぱりこういうのがいい。

 

『夜と霧』

 アウシュヴィッツ強制収容所を取材したアラン・レネのドキュメンタリー的作品。言うまでもなくえぐい。フランクルの著作の邦題の元ネタ。

 

『意志の勝利』

 リーフェンシュタールの、良くも悪くもあまりに有名な作品。地の果てから無限に沸き上がってくるかにすら見える鉄の軍隊たち。そういえば『シン・ゴジラ』に対して、これは権力の美学化だリーフェンシュタールだと騒いでいた批評家がいたけれども、やっぱり程度の差があるというか、『シン・ゴジラ』はリーフェンシュタールほど美しくはないし、従ってリーフェンシュタールほど悪質でもないと思う。

 

ラストタンゴ・イン・パリ

 生々しすぎて観るのがきつかった。

 

風と共に去りぬ

 何が良いのか分からないどころか、終始不快だった作品。南北戦争前後の南アメリカを舞台とし、スカーレット・オハラという、出自と美貌以外に何の取り柄があるのかわからない我儘で自己中心的な奴隷制支持の人種差別主義者が、他人様の旦那に横恋慕して周囲に迷惑をかけまくる。前編のラストはAs God is my witness, I'll never be hungry againという名台詞で締め括られ、ようやく彼女も成長し始めるのかなと思ったら、後編でも使用人に暴力を振るい、レット・バトラーに金の無心をした挙句に逆ギレするなど醜態を晒し続ける始末。こんな性格なので結婚生活がうまく行くはずもなく、惨めに棄てられ、最後は故郷の土地タラに縋りつきながら、まあ今後のことはまた今度考えよ、みたいなことを言いながら本作は幕を下ろす。何これ?

 

アマデウス

 確かに、多少なりともクリエイティヴな方向を志した人なら誰でも「刺さる」映画だとは思うけど、才能は神からの贈物であり、音楽は神への捧げ物だというキリスト教ベースの芸術観のもとに本作が展開されていることを念頭に置いておく必要はある気がする。つまりドストエフスキーとかと同じで、我々みたいな非キリスト教徒には、本当の意味では(本作における)サリエリの「嫉妬」を理解することはできないんじゃないかな、とも思った。

 

ラ・ラ・ランド

 2度目の鑑賞。俺は好き。

 

『劇場版響け! ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』

 俺は好き。そういえば今年はまだアニメ映画を一本しか観られていない。

 

 

 

 

『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』感想――呼称・闘争・継承

(ネタバレに一切配慮していないのでお読みになる際は御注意ください)

 

 柄にもなく感涙してしまいました。というのも、大学一回生の頃、夜のバラエティ番組で、名門の吹奏楽部を追ったドキュメンタリー的なコーナーをやっていた記憶を、ふと思い出してしまったからです。まずはその話から始めます。

 その高校は何やらかつては名門校だったらしいのですが、昨年は潸々たる成績。今年こそは頑張って、去りゆく先輩たちに堂々と花束を渡すんだと意気込む女の子が、主人公みたいな扱いでした。勝利のみを求め、彼女たちは全てを擲って練習に没頭します。お決まりのやつですね。かなり記憶が曖昧なんですが、『響け! ユーフォニアム』の劇伴も使われていた気がします。

 満を持して臨んだ大会。しかし現実は小説やアニメのようにはいかず、なんと彼女たちは予選落ち。すると、これまで熱っぽく彼女たちの青春を追い続けていた番組は、やにわに冷淡になり始めます。泣き崩れる彼女たちの後ろ姿を手持ちカメラでいささか不躾に撮りながら「彼女たちの夢は叶わなかった……」とあまりに素っ気ないナレーションを挟み、それでそのコーナーは何の余韻もなく幕を下ろしてしまうのです。

 負けたならもういいや、撮る価値なし、とでも言わんばかりの打ち切り漫画みたいな投げやりな終り方で、これでは感動もへったくれもありません。せめてもう少し何か救いはなかったのか。よく頑張ったねと彼女たちを慰める者はどこかにいないのか。

 まあただ、このアンチ・クライマックスきわまる一連の映像も、ある一面の真実を捉えてはいるでしょう。報われない鍛錬、果たされない情熱というものがこの世にはあって、そこにはどんな慰めもない、そこにあるのは無意味さだけなんだと。私は陰キャなので部活などに執心している人間などうっすら見下していたんですが、それでもこの番組を観てしばらくは、そうした報われなさについて、あてもない思惟をめぐらしてしまったのを覚えています。

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 ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

 ……本題に入りましょう。『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』という作品は、ごく大雑把に言えば、〈呼称〉〈闘争〉〈継承〉の三つの主題によって構成されています。

 まず〈呼称〉。人の名前を呼ぶことです。当たり前のことですが、「誓い」ではこのことにひとかたならぬ意味が付与されているわけです。これは冒頭から明らかであり、例えば一年生の月永求は名字で呼ばれることを激しく嫌い、名前で呼ぶように訴えます。同じく一年生の鈴木美玲は「W鈴木」とか「みっちゃん」とかいった呼ばれ方を拒絶し、そんな彼女はどうしても孤立してしまいます。また三年生の加部友恵の呼び方も「加部先輩」から「加部ちゃん先輩」へと移り変わります。その後彼女はある重大な決心をするわけですけれども。

 なぜ〈呼称〉の問題がこれほど重要になるのかと言えば、それは勿論、1年生の加入による彼女たちの関係性の変化があるからです。これはこの映画のひとつのメインプロットと言ってもよいでしょう。呼び方を決めるというのは他人との距離感を測ることでもありますから。いくら実力主義って言ったって、人の集まりなのだからこのへんは避けて通れない。

 それにしても、美玲をめぐるエピソードは興味深いものがあります。美玲は実力があるので、自主練なんかせずにさっさと帰宅してしまいます。一方で同じく鈴木姓のさつきは自主練に積極的で、先輩たちをどんどん味方につけていく。つまり自主練というものが、文字通り技術向上のための自主的な訓練というより、むしろ周囲と溶け込むための儀礼的習慣として捉えられているわけです。これは結構鋭い観察だと思います。後の努力と結果をめぐる問題にも繋がるところですね。

 久美子は指導者として、この問題を解決しなければなりません。それは次期会長就任へのひとつのイニシエーションでもあったでしょう。ようやく〈呼称〉の問題を乗り越えたとき――月永求が名前で呼ばれるようになり、美玲が「みっちゃん」の呼称を受け容れたとき――、次なる主題、〈闘争〉の主題が本格的に顔を覗かせ始めます。

 

 〈闘争〉というのはいつも勝者と敗者を生みます。報われた努力があり、報われない鍛錬があります。久美子たち北宇治は、まあ全国大会で負けはしましたけれども、概ね勝者としての物語を歩んだと言ってよいでしょう。しかし、もしかしたら負けていたかもしれない。もしそうなっていたら……。

 本作初登場の一年生、久石奏の主張は単純なものです。先輩たちが麗奈のソロを認めたのは、結果が伴ったから。もし全国に行けていなかったらどうでしょう。高坂先輩の立場はどうなっていたのかしら。現に私はそうだった。実力主義なんて欺瞞。……言われてみれば当たり前ですが、実力主義イデオロギーというのは将来的にしかるべき結果を出すということ以外に正当性の根拠を持っていません。それに引き替え、かつて北宇治高校吹奏楽部を支配していた縁故主義は、やはり強い。〈呼称〉の議論で述べた通りですが、組織は人間の諸関係の集合によって形成されるのですから、これは当然です。そして何より、このことを指摘してみせる彼女のリアリストとしての不敵な冷笑ぶり。彼女の存在はこの映画の白眉です。

 しかし、そんなのは所詮、小さな問題に拘泥しているに過ぎないとも言えます。もっと他に大事なことがあるのではないのか。……久美子の説諭は、要はこういうことを言っているのだろうと私は思います。

 再び1期の再オーディションの場面に立ち返ってみましょう。そこで露呈されるのは実力主義の挫折です。多数決で決めるというのは、制度的には、縁故主義で決めると言っているのと同じことです(無論、滝先生は彼女たちにそうではない何かを期待しているわけですが)。結果的にはほとんどの者が態度を決めかねて、この勝負は決着がつきません。実力主義縁故主義というイデオロギー対立それ自体が行き詰まりを露呈したとき、香織先輩の「吹けないです」の一言が出てくるわけです。そして香織先輩が「上手ですね」と言われて「上手じゃなくて、好きなの」と答える人間であることが、直後のシーンに示されます。

 つまり「好き」だから譲ったんですね。だから、そこに描かれているのは卑小なイデオロギーの勝った負けたではなく、それを越えたところにある良い音への無償の肯定であり、彼女たちの音楽が何かの従属物であることをやめる瞬間です。久美子はそれを目の当たりにしたが故に、次の回で「うまくなりたい」と叫ぶことになります。良い音楽をひたむきに欲望し続ける今・ここの意志。それはコンペティションとしての〈闘争〉の中にありながら、それを越えて彼女たちを突き動かす強烈な希求です。久美子は一年間の〈闘争〉を経て、それをはっきりと掴んでいる。だから彼女は奏のリアリズムに対峙することができたわけです。このあたり、大音量の劇伴に加えて雨まで降らせるのでやはり若干の演出過剰感があります*1けれども、やはり素晴らしいと言わなければならないでしょう。

 〈継承〉はもう言うまでもないですね。エンドロール前のシーン。頑張ったって意味なんかなかったんだと相変わらずシニカルな言葉を並べる奏に、久美子は悔しいかと聞く。奏は悔しいと言って遂に涙します。久美子から奏に継承されるのは悔しさです。その後久美子が部長になったことを示唆する場面を以て〈継承〉の主題は再確認され、この映画は幕を下ろす。そこには無論、部長という〈呼称〉の獲得があり、奏の涙が示唆する新しい〈闘争〉の予感が描き込まれています。

 

 ……こう言っておいて何ですが、正直に申し上げれば、「誓い」はひとつの作品としては、構成を欠いた散漫な印象の拭えない映画です。それにもかかわらず私が感銘を受けたのは、全く個人的な理由からです。まず、ごく単純にこのシリーズのキャラクターたちの物語にもう一度立ち会えたことが嬉しかった。みぞれと希美の音楽を介した美しい交歓を見られたこと。あがた祭りで秀一と一緒にはしゃぐ久美子を見られたこと。思えば満面の笑顔を見せることが少ないキャラクターだったように思いますし、久美子。

 それにこの映画は、私の中でずっとひっかかっていた報われない鍛錬というものに、きっと慰めではなかろう何かを見出させてくれたように思います。私は「誓い」を、そうした私的な思い入れ抜きに見ることができません。

 

*1:これは近年京アニの宿痾ともいうべきところですね。

21童貞が読む恋愛小説

 

 実家で寝転がって『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』なる漫画を読んでいたら母親に岩の裏に沢山くっついてる気持ち悪い虫を見るような目で見られたニート予備軍の僕ですが、冷静に考えてみれば確かにこんなタイトルの漫画を21歳童貞が読んでる光景が相当グロテスクなのは否定できません。でもいいじゃん。昔から『ローマの休日』とか好きだったし、『君の名は。』とか『ラ・ラ・ランド』でうるっとくるような人間なんです。

 というわけで(?)、今回は童貞なりに読んできた恋愛小説の感想でも書き留めておこうと思います。とはいえシェイクスピアだのスタンダールだの挙げても古典の価値を再確認するばかりであんまり面白くない気がするので、現代日本文学、存命作家かつ一定以上の知名度を持つ小説に限定して書棚から適当に選出。なお順不同です。

 

1.『ノルウェイの森村上春樹

 言わずと知れた国民作家の出世作学生運動さかんな60年代の大学という背景のもと、主人公の「僕」(ワタナベ)と心を病んだヒロイン直子、大学で出会った活発系少女緑の三人の関係を中心に、過ぎゆく青春がリリックに描かれます。日本で一番売れた小説のひとつであり、多少なりとも本を読む人なら誰でも一度は手に取ったことがある作品でしょう。

 とはいえ、本作が村上春樹の小説の中で高い地位を占める作品かと言われれば、些か疑問もあります。小説的完成度においては『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、文学的挑戦としては『ねじまき鳥クロニクル』に劣ると感じる方は多いのではないでしょうか。珍しくリアリズムの文法で書いたと作者自身は語っていますが、例えば「僕」が直子の療養所に向かう場面は、異界に足を踏み入れるような、何処かこの世ならざる雰囲気を宿しており、このへんは後の『海辺のカフカ』で出てくる森の奥の世界などにも通ずるイメージだと思います。

 僕がこの作品を未だに愛しているのは、ひとえに最終パラグラフのシンボリックな見事さ故です。「どこでもない場所」から緑を呼び続ける「僕」。彼はまさに生(緑)と死(直子)のあわいにいるんですね。と同時に、読者は冒頭の「その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいった」という一文との見事な照応を見出さざるを得ません。本当に素晴らしい。終りよければ全てよし。傑作。

 

2.『私の男』桜庭一樹

  孤児の腐野花とその養父、淳悟との性愛と別れを描く。直木賞受賞作。父娘の近親相姦という主題は、やはり本人も影響を受けたと語る倉橋由美子『聖少女』に負うところが大きいのでしょうか。

 この小説は、花が別の男性と結婚するという結末から、その出会いへと遡っていく奇抜な構成によって成功を収めています。時を遡るにつれて、舞台も退廃的で世俗的な東京から、氷に閉ざされた「北」へと移り変わり、禁断の関係を不気味に演出します。

 淳悟のあの薄気味悪さと隣り合わせの危険な魅力は同性の僕でもちょっと惚れ惚れしてしまうところがあります。冒頭の赤い傘の描写からして良い。花の恋敵・小町さんなんかも僕は好きですね。この小説の美しさと醜悪さを象徴するような人物。あんなずさんな犯罪がずっと発覚しなかったってのは無理がある気もしたけどまあいいや。

 べとついた性愛自体は読み慣れてるつもりですが、でも流石に「お父さぁん」「おかあさぁん」「はぁい」みたいなやり取りが延々続くあたりはちょっときつかったです。まあこのきつさまで含めて魅力なのですが。

 

3.『ナチュラル・ウーマン』 松浦理英子

  天才・松浦理英子の恐らくは代表作。漫画家の蓉子と彼女を取り巻く三人の女性をめぐる恋愛物語。

 同性愛、嗜虐と被虐とのよじれた関係を扱いつつ、一切の贅肉のない冷たく引き締まった(解説の多和田葉子氏曰く肉体美を思わせる)文体が、女たちの愛と挫折を描いていきます。僕が惹かれるのはこの文体の知的な強靱さとでも呼ぶべきものなんですね。そこには観念的な思弁や世間様が私たちをどう思うかとかいったなよなよした思念はなく、みずからの性を主体的に希求していく真摯さだけがあります。「マイノリティ文学」とかいうレッテルを貼って通過することは許されない必読の傑作。

 個人的には夕記子が掃除機の尖ったパーツ(?)で容子の肛門を突っつく場面が妙に印象に残っています。そんなプレイがあるのか……

 

4.『君の膵臓をたべたい』住野よる

 「小説家になろう」出身の作品。類型発行部数200万部を誇り、二度に渡り映画化された大人気作。余命僅かの快活少女・山内桜良と陰キャの「僕」との交流を描きます。

 一見してセカチューとか『恋空』みたいな10年ぐらい前に流行った「純愛ブーム」に連なる作品に思えますが、本作はあの手の「純愛」が陥りがちだった湿っぽい感傷主義や恋愛賛美をあえて遠ざけ、からりと爽やかに、ユーモラスな雰囲気に仕上げた点で強い魅力を掲げています。

 とりわけ桜良と彼女の親友・恭子との関係が美しく、その恭子と「僕」との和解によって物語が幕を下ろすというのも良い。何というか、「感動」「泣ける」というよりも、彼らを応援したくなるような優しい微笑ましさがあるんですね。評論家みたいな人たちはこういうの嫌いそうだけど、僕は好きです。

  ……でもクライマックスの「うわあああああああああああ」みたいな泣き方は流石に頂けないと思った。

 

5.『マチネの終わりに』平野啓一郎

 スランプ中の天才ギタリスト蒔野(38)とテロに遭遇しPTSDを発症する通信社記者洋子(40)との大人の恋愛を、震災や難民など現代的なテーマをまじえつつ描く。作者の平野啓一郎氏も大変なインテリの方で、その佇まい通りこの作品もまた非常に教養的な雰囲気を身に纏っています。

 ……なんですが、正直言ってこれはあんまり面白くなかったです。

 というのも、ヒロインの洋子がちっとも魅力的に見えないんですよね。オックスフォードを出てコロンビアの大学院を出て5カ国語を話すエリートってのはまあいいんですが、そのわりには恋敵のあんなテキトーななりすましメールにあっさり引っかかって、本人に確認もしないで「あなたとは続けられない」とか言い出したり。

 しかもこの人物を持ち上げるために見え透いた小説的作為があれこれなされるのも辟易。リチャードやヘレンも殆ど洋子の清廉潔白さを際立たせるためだけに出てくるような人物だし、また恋敵の早苗も、前述の見え見え偽装メールを送りつけたり洋子のチケット購入を妨害したり、ありえない奇行を繰り返します。

 でもこの小説の主眼は、何と言っても40代という年齢がもたらす不安にあるのであって、僕みたいなガキが読むのはそもそもお門違いなのかもしれません。中高年にさしかかって、ある種の破滅的な衝動を感じつつある『ヴェニスに死す』症候群(らしい)のみなさんは是非是非。

 

 

『true tears』の何がすごいのか

 『true tears』が好きです。P.A.Works作品どころか、これまでに見た全てのアニメ(劇場用アニメ含む)の中でも、いちばん好きと言い切れますし、恐らく今後どのようなアニメ作品を目にしても、ディズニーやピクサーがいかにグローバルな高度映像技術と大資本を投下しようとも、私の中でこの「いちばん」が脅かされることはまずないだろうとも思っています。

 もっとも、これはあくまで「いちばん好き」なのであり、「いちばん優れている」とは必ずしも思っていません。作画は全編通して高レベルと呼びうる水準に収まっていますが、同世代の他のアニメと比べても飛び抜けて凄いというほどではありません。主人公の高校生眞一郎が、幼馴染で同棲中の湯浅比呂美(実の妹ではないかとの疑惑浮上中)と学校で知り合った石動乃絵のふたりから好意を寄せられフラフラ、というプロットも、それほど特殊なものではなく、むしろゼロ年代にありふれていた青春ラブストーリーの一類型として受け取られるでしょう。また後半の物語展開はやや混乱が見受けられ、その突飛とも言える演出も含めて、どこかしらいびつな印象を見る者に与えます。まあしかし、否そうであるからこそこの作品は素晴らしいのですが。

 

 さて、じゃあこの作品の何が凄いのかといえば、ひとことでいえば詩的であるということです。詩的であるといっても色々あるのですが、たとえば雪とか鶏とか木の実とか、我々が見慣れた様々な物事を、凝りに凝った語り口で、作品世界の中に美しく描き出そうとしたことが挙げられます。

 これではよくわかりませんね。私にも実はよくわかっていないのですが(「好き」を言語化することの難しさを私はいつも痛感しています)――ポール・ヴァレリーは「歩行と舞踏」という喩えで散文と詩の違いを表現しています。散文=歩行は移動のためになされるものであり、読者を論理的を対象へと導くのに対して、詩=舞踏は踊ることが目的であり、つまりは言葉を操ることそれ自体の美しさをこそ追求しようとする営みであると。

 通常、雪だのマフラーだの何だのは、予め設計された「物語」の進行を円滑にし、あるいは装飾するために配置されるものです。しかし『true tears』の場合、むしろそうした小道具、細部それ自体が、様々なイメージや寓意を宿し、それらの絡み合いや連なりに導かれて「物語」が描き出されるというか……これも大概抽象的な話ですが。

 

 まあ具体的な表象に目を向けてみましょう。たとえば『true tears』において重要なモチーフのひとつとなるのが「雪」なのですが、これは乃絵の暗喩として描かれるんですね。「のえがすきだ」という眞一郎の告白は雪の上に書かれますし、「雪」は空から落下するものなので、乃絵が木から落ちてくる描写と重ね合わせることもできます。加えて乃絵は4話において、(眞一郎の心象風景として)「雪を降らせる天使」として表象されています。天使(的な存在)が地上に墜ちてくるわけですから、これは一種の堕天であり、乃絵の天上的なイノセンスの喪失を含意しているかにも見えます。

 

 

 一方で比呂美にとって「雪」は、義母との確執の象徴であり、恋敵の象徴です。彼女にとっては「雪」は自らを眞一郎から疎外する呪いとなります。義母に眞一郎との血縁関係を仄めかされた日から、今まで好きだった雪が嫌いになったと語る比呂美に、石動純(諸事情により好きでもないのに付き合うことになったイケメン。乃絵の兄)は「好きなものが好きでいられなくなるってキツいよな」と告げますが、では純が「好きでいられなくなる」ものとは……という感じで、これは後々の展開の伏線になります。

 8話での比呂美の「雪が降っていない街(に連れて行って欲しい)」という暗喩的な台詞は、乃絵からの――また義母からの――、自らを抑圧する存在たちからの逃走として捉えられます。その後バイクは転倒・炎上し、この逃走劇は失敗に終わるわけですが、考えてみれば「火」は「雪」を融かすものですから、その後に比呂美が義母と和解し、眞一郎に急接近しはじめ、恋人の地位を乃絵から奪い取るのも、こうしたイメージとの連関が窺えます。そういう点からいえば、「雪」は融ければ水になるわけですので、最後に乃絵が涙を流すのも、「雪解け」のイメージで捉えることができます。

  

 「雪」というありふれた表象に、様々な意味が宿る。長くなるのでここでは書きませんけれども、鶏にも木の実にもマフラーにも、同じことが言えるでしょう。日常的な事物を詩的なイメージへと変容させ、それらが織物のように美しく交錯していく――『true tears』の素晴らしさとは、こういう所にあるのだろうと思います。

 

アニメ版『君の膵臓をたべたい』感想

 

 『君の膵臓をたべたい』観に行ったので以下感想(あと考察もどき)を述べます。いつもの如くネタバレにはお構いなしなので要注意。

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 © 住野よる双葉社  © 君の膵臓をたべたい アニメフィルムパートナーズ

https://youtu.be/zp162UDrtyA

 

 本作は住野よる氏による同名の青春小説をアニメ化したもの。既に実写映画が昨年に公開されており、二回目の映画化となります。大人気ですね。*1

 やはりデートムービーということなのか、劇場にはいかにもリア充っぽいカップルが沢山来ていて、中盤からずっと泣いてる女の子がいたりと、陰キャアニメオタクとしてはかなりアウェー感がありました。上映終了後は彼らリア充集団から「良かったね」とか「泣いちゃった」みたいな感想がぽつぽつ聞こえてきて、なかなか好意的な感じの反応だったように思います。

 

 さて映画の内容。根暗男子の「僕」が、病院で日記を拾うところから物語は幕を開けます。その日記(「共病文庫」と呼ばれる)の持ち主はクラスの人気者、山内桜良。彼女は「僕」にこう告げます――肝臓の病気により、自分はもう長くないと。そして「僕」は、半分なし崩し的に彼女の「死ぬ前にやりたいこと」に付き合わされることになる……というのがあらすじ。

 既にお分かりかと思いますが、この映画、ここまでの筋立てだけ見ると、何ともベタベタの難病ものメロドラマとも言えます。『余命一ヶ月の花嫁』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかの系譜。

 しかしながら、作者ももちろんこの点には自覚的です。今作では大きく分けて三つの「ひねり」を加えることによって、既存の恋愛悲劇の類型性を逸脱しようとする試みがなされています。本記事では、この点について少しばかり注目してみようと思います。

 

 まず一つ、非常に外形的なレベルの話ですが、桜良の死因が実は病気ではないということです。彼女は限られた命を全うすることさえできない。これはかなり衝撃的かつ虚無的な展開で、こうした筋立てを採用することには、かなりの勇気が必要だったと思います。受け手の意表を突くにしても、「病気が予想外に早く進行して死ぬ」とか「実は犯人はあの元カレ」とか、色々他にやりようはあったはずです。しかしこの物語においては、そうした「死」に対する物語的な意味付けや虚飾の一切を拒絶して、ただ「誰にでもあった可能性」としてそれを描こうとする。この展開に対する解釈は色々あるでしょうが、僕としては「死」の、普遍的かつアンチクライマックスな性質をこそ描きたかったのかな、という気がしました。

 とはいえ(実写映画のときも思いましたが)この展開をあまり良いとは思えません。伏線があるとはいえ、あまりにも偶然性に依拠しすぎだと思うからです。たまたまあの待ち合わせの日に、あのメールを送ったタイミングで、たまたま通り魔がやって来て死ぬ、という不運な「偶然」。筆者の家に突然美少女が押しかけてきたり、気紛れで買った宝くじ1枚で3億円ゲットしたりするのと同程度の「偶然」でしょう。「負のご都合主義」というか何というか……。

 

 この辺は色々言いたいことがあるんですが、まあそれは置いといて、二つ目。「僕」と桜良の関係を、あくまで恋愛関係として描かなかった点です。

 このことは、あの雨のシーンで「僕」が初めて年相応の性衝動をあらわにするあの場面によくあらわれています。桜良は面白半分に「僕」を誘惑しますが、冷静さを欠いた「僕」が桜良を押し倒したとき、彼女は泣いて嫌がってしまう。それで「僕」は我に返り、彼女の家から逃げ出す――この危うさのたちこめるシークエンスは映像としても秀逸だなと思うのですが(あと「僕」の童貞丸出しの感じが面白い)、何が「危うい」かって、あの場面こそ、二人の関係が変質してしまうか否かの、ぎりぎりの分水嶺だったからです。桜良はこの無二の関係の「恋愛」への変貌をこそ畏れ拒絶したとも言えるわけです。

 また二人は病院で抱擁を交わしますが、直後に桜良は親友の恭子(後述しますがこのキャラは最高に良い子)に対しても全く同じように抱きつくので、これも恋愛のサインにはなりえません。

 確かに一緒にいるとときめくし、激しく求め合っているけれど、恋愛ではない――この描き方は、とても良かったと思います。「僕」が彼女から受け取ったのは、他者との交わりという人生観であり、ある意味では桜良という人間の生そのものであって、それは「恋」などというものに矮小化されるべきものではないからです。

 

 三つ目。これこそ最も重要なポイントだと思うのですが、「恭子」というキャラの存在が挙げられます。彼女は桜良の親友、病気がちの桜良をいつも気にかけて、彼女にくっついている(ように見える)「僕」をひどく毛嫌いしています。ですが恭子は、桜良がもうすぐ死ぬことを知らない。繊細な彼女が心配しすぎるのを心配して(変な日本語)桜良が教えてあげないからです。

 桜良の死後、「僕」から初めて「共病文庫」を手渡された恭子は、その時初めて彼女の余命のことを知り、涙を流しながら「僕」を厳しく詰ります。――教えてくれていれば、部活も学校も辞めて、ずっと桜良の傍に居たのに。

 けれども、まさしく恭子がそういう人間であったからこそ、桜良は病気のことを教えるわけにはいかなかったのです。お互いのことをあまりに深く想うがゆえに、残酷な真実を最期まで共有することができない。何度観ても切なく美しい関係だと思います。

 

 しかし大事なのはここからです。前述したとおり「僕」と恭子は深く断絶し、対立する関係として描かれています。一方で、共通の友人である桜良は、二人に「仲良し」であってほしいと語ります。そして彼女の死後、「僕」はその遺志を実現すべく恭子を追いかけ、「許してほしい」「いつか友達になってほしい」と呼びかける。エンドロールの後、恭子が「僕」にガムを寄越す(一度でもこの物語に触れた方なら言うまでもないと思いますが、「ガムの手渡し」はこの物語で他者との繋がりを示す機能を帯びています)場面を以て物語は締め括られる……

 ここから見えてくるのは、実はこの作品の主題は「僕と恭子」の関係にこそあるのではないか、ということです。性別も性格もクラスに於ける立ち位置も何もかも違う、徹底的な他者としての両者。その二人が、桜良という死者の存在を介して「仲良し」になる――そのとき、この映画は、この手のメロドラマが陥りがちだった恋愛至上主義や「君と僕」の閉鎖的な関係の域を越えて、より普遍的な他者との交流を物語ることに成功しています。

 兎にも角にも、「恭子」というこのうえなく魅力的な少女。彼女の存在こそが、この映画を感動作たらしめていると思います。

 

 色々書きましたが、総体的には結構楽しめた映画でした。何より「僕」と桜良の過ごした時間の幸福を、観客も共感、共有できるような説得力がちゃんとあった気がします。ときに漫才みたいな2人の掛け合いは聞いていて楽しかったですし、あのホテルでのドキドキ感と残酷さの入り交じった感じも好きでしたし。まあ、前述したような不満点はやはりありますし、『星の王子さま』になぞらえた幻想的なシークエンスはアニメならではの演出と言えるかも知れませんが、ちょっとしつこく感じてしまったり、「傑作!」とはなかなか言いにくい感じではあるのですが。

 

 あと、個人的な好みを言えばキャラデザがすごく良かったです。桜良も恭子も超かわいい。主人公の「僕」はネクラ感とイケメン感がうまい具合にブレンドされた感じ。

 

*1: 実写映画版も一応観ましたが、こちらは正直にいえば「うーん……」という感じでした。12年後に高校教師になった主人公が、教え子に過去を語るという形式を取っているのですが、これがどうもしっくりこなかった気がします。もちろん悪い映画ではないですが。

映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

 

 映画『ペンギン・ハイウェイ』観ました。以下感想を書きますが、例によってネタバレだらけなのでまだ観てない方は注意してください。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 この映画は森見登美彦の同名小説をスタジオコロリド(ごめんなさい、この映画観るまで名前すら知らなかった……)がアニメ映画化したもの。原作からしてビジュアル的に面白い場面も多く「これはアニメ映画向きの作品なんじゃね?」という感はありましたが、まあ結論から言うと限りなく理想に近いアニメ化で僕としては大満足でした。キャラデザ、声優さんの演技、美術、演出、劇伴、どれもきっちり決まっていて、小説の映像化にありがちなコレジャナイ感がまったくなく、原作を読んだときの感動をそのまま思い返しながら観ることができました。

 

 さて映画の内容。

 主人公は、小学四年生の男の子にしては異常なほどお利口さんな理系キャラ・アオヤマくん。彼は恋という観念をまだ知りませんが、通っている歯科医院の「お姉さん」のことが気になって仕方がありません。「結婚する相手をもう決めてしまった」とか「親しくお付き合いしている」とか、何かと背伸びしたモノローグがいちいちかわいい。

 そんな彼が、海のない町でペンギンを見掛けたところからこの映画は始まります。一体、ペンギンたちはどこから来て、どこへ消えたのか。町ではちょっとした騒ぎになり、アオヤマくんは友達のウチダくんを引き連れてペンギン研究を始めます。しかし、さらに不思議なことに、ある日アオヤマくんは「お姉さん」が実はペンギンの謎と深く関わっていることに気付いてしまう……というのが導入部。

 理系少年アオヤマくんのかわいさは勿論ですが、この「お姉さん」というキャラ(名前は最後まで明かされません)もまた素晴らしい。無邪気で自由奔放で優しくて、しかし何やら不思議な力を秘めたミステリアスな女性――彼女はコーラの缶をペンギンに変身させて「この謎を解いてごらん」とアオヤマくんを誘惑します。あのシーン、アオヤマくんの歯を引っこ抜くという描写と併せてふたつのイニシエーションが重なり合うシーンだよなあ、みたいなことも考えましたが、パンフレットを読むと大森望氏が既に全く同じ指摘をしていました。何にせよ非常に鮮やかなシーンでしたね。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 それから〈海〉の発見、ウチダくんやハマモトさんとのワクワクに満ちた実験と観察の日々、ジャバウォックの出現と町に迫る危機、アオヤマくんがお姉さんの部屋を訪れる場面の静謐な美しさ……こうして書いていくとあらすじ全部書くことになってしまいそうですが。

 

 しかし何と言っても凄まじいのがクライマックス。怒濤のように押し寄せる大量のペンギン、〈海〉への突入。アニメーションならではの魅力に満ちた動的なシークエンスで盛り上がりを演出し、そして〈海〉の中は、打って変わって沈黙の廃墟が広がり……制作陣の力の入れようが直に伝わってくる、圧巻の映像です。

 何が素晴らしいかって、視覚的な快楽は勿論なのですが、それ以上に、この場面こそ「生」と「死」、歓びと哀しみが混交して奔流する、あらゆる意味でこの映画を代表するシーンだからです。

 というのも、ペンギンも「お姉さん」も、これから消えてしまう運命にあるからです。この物語と「死」という問題の関連については後述しますが、ペンギンと「お姉さん」をめぐる謎の真相は、残酷といえばあまりにも残酷なものです。

 しかし未練を断ち切った「お姉さん」は、そんな葬列をカーニバルのように賑やかに演出してみせます。彼女の手によって次々とペンギンが生まれは町に溢れ出していく。「生まれる/死ぬ」という無情な真理を、ああも爽やかな祝福として描き出したという点において、あの場面はこの上なく感動的でした。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 あ、あとラストシーンは原作とちょっと違うんですが、あれも映像作品として大正解としか言いようのない、見事な結末だったと思います。そしてその直後に流れる宇多田ヒカルの「Good night」……あのとき、多分人生で初めて映画館で泣く体験をしました。とにかく素晴らしかったです。

 

 

 褒め言葉ばかりでも面白くないので、ここからはちょっとした考察(という名のポエム)。

 これは謎を解き明かさんとして世界の外部へと手を伸ばしていく物語でもありますが、同時に自己発見の物語でもあります。

 たとえば恋。なぜアオヤマくんは「お姉さん」を見ていると幸せな気持ちになるのか。他の人と「お姉さん」は何が違うのか。恋という謎――アオヤマくんが己のうちに抱いた謎の自覚を、原作では以下のように叙述しています。きわめて美しい文章なので、ちょっと長めに引用しておきます。

 

ぼくはかつてお姉さんの寝顔を見つめながら、何故お姉さんの顔はこういうふうにできあがったのだろうと考えたことがあった。それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光る髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。ぼくは、太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。ぼくが男があるから、ぼくの細胞の中の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。でもぼくは仮説を立てたいのでもないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういうことではなかった。

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(角川文庫・2012年)372-373頁 

 またこの作品では、最後まではっきり解き明かされない謎があります。即ち「お姉さん」はどこから来て、どこへ行ったのか。これは将来、アオヤマくん自身が解決するであろう謎として残り続けます。

 しかし、それは「お姉さん」だけが有する謎ではありません。我々ヒト自体、どこから生まれてどこに行くのやら、ちっともわからない。「生と死」は人類最大の謎であり続けるしょう。

 作中、アオヤマくんの妹が「お母さんが死んじゃう」と言って彼に泣きつくシーンがあります。勿論、母親が難病に罹っているとかそういうわけではなく、単に普遍的な問題として「人はいつか死ぬ」ということに気付いてしまった、というだけのことなのですが、アオヤマくんは妹をうまく慰めてあげることができません。

 

でも、たとえお腹がいっぱいであっても、何も言えなかったかもしれない。「生き物はいつか死ぬ」ということをいくら説明しても、彼女は納得しないということが、ぼくにはわかっていた。なぜならぼくも、あの夜にそんな説明では納得しなかったと思うからだ。

同上・272-273頁

 何気ない場面ですが、これは単に「お姉さん」との別離の伏線というだけに留まらない、この作品の主題に直接関わる重要な機能を帯びたシーンだと思います。「お姉さん」という謎は、生と死という謎とも繋がっていくわけです。

 アニメ版だとカットされていますが、原作ではこの「生と死」をめぐるテーマはもう少し掘り下げられています。あえて引用しませんが、ウチダくんが自分の死生観を語る場面なんかも面白いので、このへんは是非原作も読んでほしいですね。

 

 総合すると、この作品において、世界の成り立ちを巡る謎と、己自身が抱える謎は、決して別なことではなくて、むしろそのふたつの謎が重なり合うところにこそ、この一夏の物語が存在し得たと言えるんじゃないかと。

 アオヤマくんはペンギンと〈海〉からなる世界の謎を解き明かそうとしますが、その謎は図らずも「お姉さん」という謎へ、そして自らの恋心という謎へと繋がっていきます。逆に「お姉さん」にとっては、アオヤマくんが目指す研究に付き合うことによって、逆に自らの本質を発見してしまうんですね。そしてそれらの謎に底流する「生と死」という根源的な難問。――世界の外を発見しようとする彼らの旅は、同時に彼ら自身が抱える謎へと踏み入っていく旅でもあったとは言えないでしょうか。

 

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© 2018 森見登美彦KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 

 世界は謎に満ちている。このことを、こんなにも楽しくユーモラスな冒険譚として、ちょっと哲学的な思索の物語として、かつ残酷で切ない初恋の物語として描き出した本作。今年、この上なく夏映画にふさわしい作品だと思います。

 

 

※本記事の画像は全て『ペンギン・ハイウェイスペシャルトレーラー(https://youtu.be/tVhy2LnbL1A)より。

 

北条裕子『美しい顔』感想――ワイドショーと文学

 

 現在話題になっている北条裕子『美しい顔』読みました。特にこの小説に興味があったというわけではなく、出版社が無料での全文公開に踏み切ったので、便乗してタダ読みしただけですが……。芥川賞の有力候補作ということもあり、せっかくなので感想でも書いておこうと思います。

 

 

 なお今回問題となった剽窃疑惑そのものについては言及しません。「参考文献」を今のところ全部読めていないし、こうしたデリケートな問題に関して素人判断は控えるべきだと思うからです。

 

 小説の感想を述べる前に。震災と関係のない人間が震災を主題に小説を書くということの是非ですが、これ自体はとりわけ問題はないと僕は思います。小説の特質として「当事者でないから書ける」という面は確かにあるわけですし、常識的に考えても、小説家が経験していないことを書くのはごく当然のことでしょう。

 ……しかしまあ「文学のワイドショー化」という問題はそれはそれでありますし、たとえば現在さかんに議論されている「文化盗用」の問題なんかもそうですが、フィクションの名の下にマジョリティがマイノリティのことを好き勝手書いていいのかみたいな疑問も当然あります。当時と現代では文学のありようも全く異なるので、現代の作家にはまた異なる美意識やモラルが求められるのかもしれません。

 

 それは置いておくとして、感想。

 風変わりな小説です。震災を舞台にした一人称小説ながら、作者は被災者でもなければ現地に行ったこともないと公言し、若い女性のお喋りのような文章はお世辞にも整っているとは言い難い。これをどう読むべきでしょうか。

 この小説は全編「私」の語りによって成り立ち、マスコミを中心とした震災の「物語」化を批判するものです。主人公は悲しみを悲しみのままに受け入れ、凡庸な、それ故に恐ろしい「日常」へと回帰していく。そこには、我々が震災文学を読むにあたって内心期待してしまうようなドラマはありません。「語り」によって「物語」が批判解体されていくというのは、何だか現代文学的な試みでもある気がしますね。

 とはいえ、読者は直ちにひとつの疑問を抱くはずです。この作者のやってることって、作中で批判されてるマスコミ的な取り上げ方と大して変わらないんじゃないの?

 実際その点は作者も自覚しているらしくて、語り手=「私」は常にみずからの言葉に戸惑い、逡巡を重ねます。「私」はマスコミを脳内でボロクソに言った後、ふと我に返ってこう述べます。

  私は自分をこれほどまでに汚らしく思ったことは、いまだかつてなかった。脳味噌が勝手に邪悪な言葉をやすやすと並べ立てていくのをどうすることもできなかった。あふれ出してとまらない卑しい言葉の洪水に溺れそうだった。

   マスメディア=「物語」に対するアンビバレントな感情。「語り」の内包する自己矛盾との絶えざる格闘こそが、この小説のテクストを構成しているかのようです。「小説」という内面描写を得意とするいうメディアの美質が活かされているとも言えますが、即ち現代において、ワイドショーと文学にどのような差があるのか? という問いこそ、この小説の文学的な問いかけであり、挑戦なのだと思います。だとすれば、決して美的と言えないこの荒い文体も、技術上の理由があって用いられていることがわかります。

 

 ……ただ読み終えて、ごく率直に「俺、この小説好きじゃない…」とは思いました。

 何というか、自己陶酔を批判しているはずの文章が、むしろ自己陶酔に陥っている、ないしそれらの区別がつかないような部分が目につくんですね。母との「再会」もラストシーンもなんだか読者の涙を煽る過剰表現や紋切り型の連打に堕してしまっている気がします。

私はいくども心の中で呼びかけてきた。母さん、悪いんだけど、やっぱ、大学じゃなくて専門に行きたい。そうさせてほしいの。私、やっぱり、福祉の仕事やりたいわ。災害とかにあった人が看護とか福祉とかに興味もつってすごいありきたりって感じだけどさ、私、自分がありきたりでいいって思えたんだよね。

 海面が銀色に光っていた。海面は一時も静止せず、あらゆるものを排除する残酷さとあらゆるものを受け入れる寛容さでとどまることがない。

 うーん……

 終盤の「奥さん」の台詞もなあ。安い探偵小説の種明かしパートみたいな説明的な感じで「え、それ直接言わせちゃう?」って感じなんですが、何より被災者に対して「文学」が説教をするという、一番やってはいけないことをやってしまっていて、読んでいて非常に違和感がありました。 

「だけどね、このあなたが、今苦しんでおけば、今苦しみ抜いておけば、いつか必ずお母さんのことを、やすらかで穏やかな存在として受け容れられるようになっていきます。今は、そんな日は決して来ないだろうと思うでしょうけど」

「どうにもできないってわかって、そのことに怒ったり泣いたりするしかないの。苦しんで苦しんで、苦しみ抜くしかないの」

  読んだ方なら分かると思うんですけど、この後に続く「私の死んだ息子も……」みたいなくだりも、何だか母性神話っぽくて胡散臭いですよね。愛した人の無惨な死体を見たくない、見なくて良かったという方だって当然いらっしゃるでしょうに。そんなの本当に普遍的なことなのか? そうした人生訓を「文学」が押し付けていいのか?

 総体的には、試みは理解するにしても、結局のところは所謂「感動ポルノ」的なところから逃れられてない感じがして辛いというのが僕の正直なところでした。まあ何かを批判していた人が、いつのまにか批判対象と似たような存在になってしまうというのはよくあることですが、この小説もそんな感じだったなあ、と。

 

※引用部は全て北条裕子『美しい顔』(講談社)より 

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

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