『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想

 

(ネタバレ注意)

 

youtu.be

 

 

 

 MOVIX京都で「外伝」を観、そこで「鋭意制作中」の5文字を目にしてから、もう1年以上になる。重なる不運をこえて、京都アニメーションは「劇場版」を世に送った。代筆屋の少女をめぐる物語に、ようやく終止符が打たれたことになる。

 本作はヴァイオレットのかつての依頼主の娘アン・マグノリアのさらに孫・デイジーを語り手として設定している。すべてが終った地平から、回想形式で語られるわけだ。そこで綴られるヴァイオレットの物語は、かつてあった戦争の悲劇の回想へと繋がり、かくして本作は、三重の時間を生きることになる。上官ギルベルトに愛の言葉を教わり、自動書記人形として多くの言葉を語り、やがて語られる側になるヴァイオレット。時を超えた言葉の繋がりを描き出すことが、本作の企図とひとまず言えるだろう。

 本作において時を象徴するイメージが電波塔である。電話の普及により、徐々に手紙はかつての地位を失っていく。しかし郵便社の人々は、その商売敵を「いけ好かない」とは言いつつも、淡々と時代の変化を受け入れている。中盤、彼らは依頼主の少年ユリスの望みを叶えるため、この新しいテクノロジーを頼ることにもなるのだ。メディアが変わっても、言葉を通じ合わせることの歓びは変わらない。

 

 物語は、死んだと思われていたギルベルトが実は生き延びていて、辺鄙な小島でひっそり暮らしていたという事実の判明から幕を開ける。戦争の傷を色濃く残す島で、ギルベルトは希少な男性労働力として貢献しているようだ。それは彼なりの贖罪行為でもあるのだろう。当然ながらヴァイオレットに対しても強い罪悪感を持つ彼は、せっかく島にやってきた彼女と会おうともしない。そんな彼が、逡巡の末にヴァイオレットと出会い直し、新しい時を一緒に生き始める――これが本作の主筋となる。

 しかしながら、こんなおとぎ話的なハッピーエンドが必ずしも必要だったのか、という疑問は残る。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは、戦争と上官が世界のすべてだった少女が、様々な人々と時間を共有する中で新たな自己を形成していくという物語だったのではないのか。大切な人を失っても、なお生きるための術を学ぶ、翳りを帯びたビルドゥングス・ロマン。それゆえ、ギルベルトとくっついてめでたしめでたしということが本当に着地点でよいのか、という気は、どうしてもしてしまう。

 しかし本作の作り手たちは、あくまでヴァイオレットに目一杯の幸福を与えてやることにこだわった。それが「親心」というものだろう。文字通り言葉を失うヴァイオレットと、彼女を片腕で抱き留めるギルベルト。最上の結末に至ってしまった彼女に、もはや物語られるべきものは残っておらず、時間に呑まれてすべてが過去になってしまった後、デイジーは彼女をめぐるわずかな後日談を語り、家族に向けて手紙を書く。3つの時間はひとつに閉じて、映画は終る。TV版が放送されてから2年半、この物語を最後まで観ることができてよかった、と思うばかりだ。

 

 なお、本作で非常に重要な役割を果たすことになるのが郵便社の社長、ホッジンズである。ヴァイオレットの成長に感じ入り、彼女の結婚を意識して気を揉み、「子供ができるなら息子がいい。娘じゃ身が持たない」とぼやいてみせる彼は、世の父親そのもの。そう、本作はいわば疑似的な「娘の嫁入り」物語でもあるのだ。

 電波塔の完成を祝う花火を見つめながら、ホッジンズはふと彼女の不在に気づく。祝福と寂寥の入り混じった表情を浮かべてひとつの時間の終局を見届ける彼の姿には、作り手の、そして観客の心情が、ささやかに織り込まれているように思われてならない。