暗喩表現批判序説――『アイドルマスター シンデレラガールズ』(と『ラブライブ!』)を視座に

 『アイドルマスター シンデレラガールズ』(2015、以下「デレアニ」)を語るとき、人はしばしば、6話の展開を話題にします。観た方なら誰もが覚えているでしょうから詳述は避けますが、簡単に言えば初ライブで期待したより客が入らなかったというので、本田未央という子がショックを受けて失踪してしまうというエピソードです。

 3話で彼女たちに(身の丈に合わない)成功体験を味わわせておいた上で、この展開に持っていくという話運びの巧さは勿論注目すべきですが、未央の勘違いぶりや未熟さが強調されるだけに、どうしても好き嫌いが別れる。その後に続く7話は、ほとんど丸ごと彼女をめぐるトラブルの解決と説得に費やされることになります。

 この点で、強い対照性を持つのが『ラブライブ!』(2013)の3話でしょう。こちらは初ライブに身内とその他数人しか来ないという、「デレアニ」と比較しても惨憺たる結果に終わっています。しかし、高坂穂乃果はそれで失踪したりはしない。いずれもっと多くの客を集めてやろうと決意を新たにし、さっそく仲間集めの物語が始まります。良くも悪くも単純さが売り。この作品については、エンタメの定石をしっかり踏まえてそこそこ面白いということ以上に論じるべきことは(少なくとも僕には)ありません。

 この簡単な比較をとっかかりに、ひとつの図式をまずは描いておきましょう。それは『ラブライブ!』がアクションのドラマであるのに対し「デレアニ」は心理のドラマとして作られている、ということです。しかしアクションとは違い、心理を画面を直接書き込むことはできません。台詞で処理してもいいけれども、それでは芸がない――そこで「デレアニ」が多用するのが暗喩的・寓意的表象です。この記事で僕が主に批判したいのが、この暗喩という「一見凝った」技法です(この時点で、いやいや何を言ってるんだ、暗喩を駆使した映像作品なんて山ほどあるし、だいたい映画の歴史を紐解けば、人工的なセットや象徴的・暗喩的なイメージによる心理表現を特徴とする流派も存在したというじゃないか、教養のない若いアニオタはこれだから困るね、と指摘する方もおられるでしょう。そのことについては後に述べます)。

 例えば、「デレアニ」では心理が暗転すると天候が悪化する、という演出がたびたび用いられます。たとえば7話の導入は「砕け散るガラスの靴」→「雨の街」→「暗い顔のキャラ」という、文字通り絵に描いたような象徴性の連鎖によって支えられています。

 このような手法には、しかし無視できない弊害があるはずです。ひとつには、このような形で暗喩が用いられるとき、暗喩するものとされるものとの間に固定的な対応関係しかなく、言葉によって一義的に説明できてしまう、ということのつまらなさです。なるほど「デレアニ」の曇り空は未央や卯月やその他人物の心理的憂鬱を表現しているんだろう。しかし、そこで用いられる曇り空のイメージは、単なる物語の説明でしかなく、それ以上の美的、意味的なふくらみが全然ない。その証拠に、「デレアニ」の多くの演出は「これこれはあれそれの暗喩である」という風に、簡単に、過不足なく、言葉で置き換えてしまえるわけです。

 第二に、シーンの構成自体が不自然になりがちだということです。何せ登場人物の心理が曇るたびに空も一緒に曇るというのですから、そのような手法を無工夫に繰り返せば、作品世界がひどく作為的な、書き割りじみたものになるのは目に見えています。終盤顕著になる「雲に隠れた星に価値などない」「晴れない雲はありません」といったむやみと暗示的な台詞の応酬にも、このような暗喩の弊害が現れています。

 何より問題となるのが、実は23話です。渋谷凛島村卯月の手を引っ張り、すべての出発点だった公園まで連れて行く。未央も交えて思いをぶつけ合った後、卯月ひとりを残して二人は去る。

 この一連のシーンが何を意味しているかは、ひとまず明白でしょう。卯月が自発的に踏み出す一歩を待つ、そうでなければ問題は解決しない――なるほど「意味」は通っていますね。しかしそれは象徴的・寓意的なレベルで成立する話であって、より形而下的な、女の子同士の間に起きた一連の出来事として観るとき、これはやっぱりおかしい。何がおかしいんだよと言うあなたは、じゃあ(幼稚な話ではありますが)凜の立場でその場に居合わせたとして、卯月ひとりを置いていけるでしょうか。他ならぬ自分が連れてきた、明らかに精神が不安定になっている女の子を? 卯月にひとりでじっくり考えさせるため、と言うでしょうか。しかし、それは何も宵闇迫る冬の公園である理由はないでしょう。つまりここでの凜たちの心理の動きには、どうも説得されないわけです。卯月に「先に行っていい」と言わせるなり何なり、具体的な契機によって、この選択の妥当性を支えない限り、これは寓意としては成り立っていても、シーンとしては成り立たないだろう、という気がします。

 

 

 当たり前の話ですが、暗喩というのはきわめてオーソドックスな修辞技法です。文学は勿論、映画においても。僕の好きな映画をとりとめなく例にとると、『波止場』(エリア・カザン、1954)はアンテナを十字架に見立てるといった形でキリスト教的なモチーフを配置していますし、『ビリディアナ』(ルイス・ブニュエル、1960)に出てくる牛の乳やら縄跳びの持ち手やらは、明らかに男根の暗喩でしょう。

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 或いは『M』(フリッツ・ラング、1931)の、以下のようなシーンはどうか。

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 最近の映画では、『寝ても覚めても』(濱口竜介、2018)が「川」と「海」を効果的に用いていますし、日本のアニメでは、『たまこラブストーリー』(山田尚子、2014)の冒頭に出てくる万有引力(あるいはエデンの園か?)の暗喩としての林檎が印象深いでしょうか。

 しかし、これら「名作」に出てくる暗喩というのは、いずれも作品の中心的なイメージとして、ある種の「決め手」として機能しているわけです。対して「デレアニ」に出てくる曇り空、赤信号、2羽の鳥(これは8話ですか)といった暗喩表象はどうか、ということなのです。これらの暗喩イメージは、場当たり的な使用しかなされていないのではないか。心理表現の誇張や人工的な画面という点で、例に挙げた『M』を含む、表現主義映画の影響というようなことを指摘すべきでしょうか(挙げ忘れていましたが『少女革命ウテナ』(1997)なんかそういう作風ですね)。しかし、そのような作品は必然的に、ある種の異様性を画面に纏わせることになります。そのような手法が、果して「デレアニ」の物語構成に対して適切な演出か、という疑問が出てくる。要は、あくまで健全かつ端正なリアリズムを企図する全体の構成と、細部のあからさまな人工性の突出がそぐわないわけです。

 こう書くと、お前はどれだけ「デレアニ」が嫌いなのかと言われそうですが、そうではありません。例えば19話、これは文句なく素晴らしい。どのシーンも良いのですが、とりわけ多田李衣菜木村夏樹に誘われてバイクに乗る一連の場面は、不安と期待の交錯する青春の一幕を、本当に見事に切り取っていると思います。さらに23話、卯月の揺れる瞳や、震える声の表現もいい。自分を見失い、彷徨い続ける一人の少女の姿がそのような形で形象化されているからこそ、我々は共感し、また感動もするのです。それらのシーンは、もっともらしい暗喩とは何の関係もなく、そして美しい。

 

 僕が嫌いなのは、暗喩で画面を埋め尽くしておけば、さも凝った知的な構成であるかのように見做す風潮が一部にあるということです。「デレアニ」放送当時は、頓珍漢な批判が結構多くてむかついたのですが、それと同じくらい、ある種のファンがしょうもない暗喩解読ごっこに走り「こういう本格派の心理アニメが理解できない奴は阿呆」みたいな態度をとっていたのが気色悪かったわけです。ある考察ブログは、23話の「もう一度友達になろう」の後に出てくる意味深な樹のカットが何を意味してるかわからない、などと不思議なことを書いていました。このシーンから読み取るべきは、どう考えても「樹の意味」ではないでしょう。何はともあれ3人が同じものを見ている、つまり再生の希望がそこにあるということ――それだけの話だろうと僕などは思うのですが。とにかく、てんこ盛りの暗喩なんてのは「デレアニ」の本質的な魅力ではまったくないのです。

 

 こういうことを考えた――というか思い出したのは『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(2020、以下「ニジガク」)を観たことが直接のきっかけです。先述した『ラブライブ!』については、僕は無印1期をそれなりに優れた作品だと見做していますが、その分2期の弛緩ぶりにはがっかりしましたし、『ラブライブ! サンシャイン‼』(2016-2017)には本格的に失望させられ、コンテンツ自体から興味が遠ざかっていました。

 「ニジガク」は、これまでのシリーズで最良の作品であるのみならず、アイドルアニメというジャンルにおいても決定的な価値を持つ傑作だと思いますが、しかしここでも気になるのが、歩夢の心理描写に伴う暗喩の多用です。話題になった11話では、上原歩夢と高咲侑の関係の暗喩として、道路標識や赤信号が出てきました。一応、これらは全て「交通」に係るイメージですから、「バス」や「定期券入れ」といったモチーフ(これらは全て2人で同じ時間と場所を過ごすという日常性の象徴であり、それゆえ彼女たちの関係が変化する12話ではバスに乗らずに歩いていくという儀式が必要になる、云々)と繋がってひとつの中心的なイメージを構成している、と解釈できないことはないと思います。

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 しかしそうは言っても、「ニジガク」の魅力とは、やはりライブシーンの多彩な演出であり、中須かすみのコメディリリーフとしての生き生きとした躍動であり、歩夢が侑の脚を挟み込む仕草の官能性であり、うまくいかなくなった関係を再びやり直していくという反復のドラマのはずです。暗喩を沢山使っているから凄いというわけではない。そのことを、ゆめゆめ忘れずにいたいものです。

 

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