「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」における文章技術について

 賛否の分かれている島田彩さんの「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」(2021,以下「松のや」)をいまさら読みました。思うところがあったので、以下に述べます。

ティファニーで朝食を。松のやで定食を。|しまだあや(島田彩)|note

 

 なお文章の真実性については、ここでは問いません。事実確認は不可能でしょうし、そもそも書かれたものはすべてどこかしらフィクションであるしかないと思うからです(文章には固有の造形性というものがあって、ありのままの事実など決して映しはしないものです)。ですのでこれもフィクションとして読むことにします。

 

 さてこの文章については、例えば以下のような指摘がなされています。

 

 私も同じく、かなりテクニカルに書かれた文章という印象を受けました。主人公=書き手が「たくさん信じてよかった」「すごく楽しかった」といった幼い語彙の選択によって素朴な感性を装っているところが、なおさら巧みです。念のため言っておけば、「装っている」こと自体は、悪いことでも何でもありません。それもまた文章による造形のひとつだからです。

 ではこの文章において使われている技法は、具体的にはどういうものなのでしょうか。そこに見られるのは「時限性」「振幅」「匿名性」「数字の羅列」といったメロドラマ演出のテクニックです。

 

 まず特徴的なのが「時限性」と「振幅」です。各々に階級の異なる男女が、限られた時間を共有し、再びお互いの世界に戻っていく。その世界で最も有名な例は、もちろん『ローマの休日』(1953、ウィリアム・ワイラー)でしょう。プロットの構造だけを取り出せば、「松のや」は『ローマの休日』の変奏曲と言うことができます。感動する人が多いのも道理です。

ハンバーグとエビフライの定食を一緒に食べて、街を歩いて、公園で喋って、銭湯行って。最後に、カーディガンをプレゼントしてもらった。そして、私は家に帰り、その人は高架下に帰っていった。

 ちなみに、なぜ「格差」と呼ばずに「振幅」と呼ぶかというと、別にそれは階級的な分断でなくてもかまわないからです。男女の間に何らかの距離があり、斥力と引力が然るべき葛藤を演じてさえいれば、メロドラマは成立します。例えば『君の名は。』(新海誠、2016)は、都市と地方という落差を活用し、かつ「時限性」を導入することで、一遍の物語を織り上げているというわけです。まあ、ともあれ「松のや」が、古典的なメロドラマの文法に忠実に書かれていることは、ひとまず明らかだろうと思います。

 

 「時限性」と「振幅」が物語の大まかな形式にかかわる問題であるのに対し「匿名性」と「数字の羅列」は、どちらかと言えば細部の作り方に関するものです。「松のや」に出てくる男女は、お互いに名前も来歴も知らないということになっています。そして彼女たちの周囲には、やたら正確な時刻や金額の表記が飛び交っています。

2日目 17:30
【貸し】定食890円、タバコ560円、コーヒー130円、入湯料440円、シャンプーとボディソープ1回分
【借り】2000円、シャンプーとボディソープ2回分、回転焼1/2、ビニル袋、褒め殺し

 本編で最も技巧的なのは、おそらくこの「貸し/借り」の反復的挿入でしょう。これによって何が表現されているのかというと、一言で言えば交換可能性です。住人との交流を、こうして数字として表現していく。書き手にとって西成という空間は、誰が誰であっても構わないし、見分けもつかないような場所なのです(何度も言いますが、別にそう表象すること自体が悪いわけではありません)。そして書き手は「借り」とは違う相手に「貸し」をつくっていくことになる。これもまた文章全体の「匿名性」の性格を強めています。そして、そのような匿名的・数字的・交換可能的世界の中でこそ、書き手とホームレス男性との唯一的な出会いが、対蹠的に輝きを帯びるという仕組みなのです。

 このような「匿名性」と「数字の羅列」をもっとも効果的に用いた作家として、我々は初期村上春樹の名前を想起することができます。例えばデビュー作『風の歌を聴け』(1979)には、以下のような特徴的な文章が登場します。

そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。

 これはもちろん「彼女の死」という重い唯一的な出来事を強調するために、「6922本めの煙草」という、どうでもいい交換可能なディティールをあえて対置しているわけです。すべてが数字に置き換えられる現代都市空間の中で、置き換えがたい何かがいっそう重くのし掛かる。それこそが、当時三十代の村上春樹が表現しようとした世界でした。 

 この点で「松のや」が同型の方法を用いていることは、今や誰の目にも明らかだと思います。890円、2000円という冷たい数字の列挙の中で「褒め殺し」という人情の暖かみがいっそう際立つ。これは細部まで、かくのごとくきちんとした計画と戦略のもとに書かれた文章なのです。

 

 こうしてみるとき、「時限性」「振幅」「匿名性」「数字の羅列」というテクニックが、いかに相互連携し、巧みな効果を挙げているかが理解できると思います。また巧みであるが故に、それは現実の社会のありようを隠蔽する形で機能してしまうのだと言うこともできるでしょう。例えば「匿名性」ひとつ取っても、野宿者たちが名前や素性を安易に明かさないのは、社会の抑圧があるからに他なりません。また「時限性」は、書き手が当該都市空間の「良い面」だけを見て帰るという、観光的な精神によるものと指摘することができます。1年と言わず、一週間でも住めば、その都市の嫌な面も、社会の矛盾も、住人たちの苦しみも、たくさん目撃せざるを得ないのではないでしょうか。この文章の美しさは、そういった現実の生々しさを覆い隠すことによって成立していると言えるでしょう。

 「巧みな文章」と「良心」は、必ずしも一致しません。相反する場合の方が多いとさえ言える。いじめっ子ほど道徳の作文で良い点を取るというのは、よく聞く話です。言葉にはそういう、どこか根本的に不実なところがあるのです。こういうことは当然の世間知と思われるかもしれませんが、書く側も読む側も、あまりにしばしばそれを忘れ「巧みな文章」と「良心」を混同してしまう。美しい言葉を見かけたら、ひとまず警戒するに越したことはありません。