六地蔵にて

 

 どういうわけか不幸が続き七月以降は心身ともに絶不調だった。一日中鬱々としてベッドから出られなかったり、かと思えば理由もなく興奮状態になって一睡もできなかったりした。こういうときはアニメでも観て心を慰めるのが習慣だったが、いまやそうもいかない。

 それでも八月に入ると、流石に気持ちも落ち着いてきた。身体的に体調を崩すことは多かったが、精神的には、外出が可能そうな状態になんとか復調していた。そこで、かねてから行かなければならないと思いつつ先延ばしにしていた、京都アニメーション第1スタジオへの献花を、ようやく決行することにした。大仰ないい方だが、同じ京都市なのだからちょっとしたお出かけ程度の距離である。しかし家から一歩も出られない日が続いた私にとっては、これでも大冒険だった。

 こういう日記的な文章を書く機会はこれまでほぼなかったが、とても印象深い出来事でもあったから、いくらかの不謹慎は承知のうえで、むしろ私的な備忘録として、ここにそのことを書き記しておこうと思う。

 

 重大事件が起ると、決まって献花台が設けられ、多くの人々が花やらお菓子やらを置いていく。私はこれまで、こうした儀式に行く人の気持ちが、正直に言ってわからなかった。さらに正直に言えば、いまもわかっていないし、自分が何故行こうと思ったのかすらわかっていない。

 強いて言えば、区切りを付けるため、即ち日常を取り戻すため、という意味合いが強いのかもしれない。事件の衝撃は、人間の生活や感性を、やはりどこかしら変容させてしまう。私は事件のあった日からしばらく、我々の日常が何事もなく続いているのが、なんだか許しがたい不条理のような気がしていた。なぜ誰もが顔色ひとつ変えずに生活できているのか分からなかった。本当にそういう感覚に陥っていたのだ。あるいは(これは誤解しないでほしいのだが)むしろ生者の連帯のためではないかとも思える。

 私はルネ・クレマンの『禁じられた遊び』という映画が好きで好きで、いつ見ても落涙してしまうのだが、あの映画がああも人の心を打つのは、弔いが、それを通じて生者同士が繋がっていく儀式として描かれているからではないだろうか。それはミシェルとポーレットに限らず、ポーレットの家族やその隣人一家も同じであり、墓は共同体の尊厳そのものである。そしてそれ故に彼等は争うことになるのだが、これは無名戦士の墓碑をナショナリズムの文化装置と見るB・アンダーソンの議論にみられるように、本作のいまひとつの主題たる国家間の戦争の論理にも通ずる。弔いの周囲にはいつも繋がりの意識が、共同体が形成されるのだ。

 

 ……話を戻そう。ともかく弔いに行かなければならないと思ったのだった。私自身、いつまでも精神的に引き摺っているわけにはいかなかったし、他の人々と、死者への想いを共有したかった。実際にはもっと衝動的なところがあったが、この説明で大きく間違ってはいないだろう。

 しかし私は地下鉄に乗り込む前に既に二つ間違っていた。ひとつは身なりだ。

 引き籠もりのような生活を送っていたために、髪も髭も伸ばしっぱなしで、完全に浮浪者の外見だった。駅構内でガラスに映る自分を見て、ようやく自分のみすぼらしさに気づくという、イギリス留学中の夏目漱石みたいなありさまなのだ。風呂と洗濯はしていたものの、着ている服もよれよれで、要するにあまりに清潔感を欠いていた。道を教えていただいた近隣住民の方も、よくこんな不審者に快く対応していただいたものだと感謝は尽きない。

 もうひとつは花の選択だった。近くの花屋が閉店していたので近くのスーパーに立ち寄り、選択したのは530円のしょぼいカーネーション。当然ながらリボンや包装などの気の利いた装飾もなく、お話にもならないケチさであった。どのぐらいが相場で、どんなものを選択していいかわからなかったのだ。ともあれこんな状態で、右も左もわからぬまま私は献花台に突撃していったわけだ。

 

 そもそも私は3年も住んで京都の地理に甚だ不案内であったし、いわゆる「聖地巡礼」の文化にも馴染みがなかった。旅行に関心が低かったというのも勿論あるが、なによりアニメとして築き上げられた幻想世界が、不用意に現実と接地することでその虚構性をあらわにしてしまうことが嫌だったのだ。私はあくまで空想に没入したいタイプだった。

 しかしGoogleマップを頼りに六地蔵駅なる聞き慣れない駅から地上に出ると、たちまちその現実が視界に現れてきた。

 

 

 

 いちおう観光ではなく追悼に来ているわけだから写真撮影は控えたが、山科川の橋の、あの鉄塔のあたり、確か『響け! ユーフォニアム』のOPで映っていた場所じゃなかったっけ。 アニメーションの中で、青春のトラジコメディの象徴として描かれてきたその景色は、そのとき猛暑で蝉も何も死に絶えたらしく、がらんとして静かだった。

    橋を渡ると、なんだか全く違う世界に行くような錯覚を覚える。閑静な通りには、取材お断りの貼り紙があり、それだけが事件を物語っていた。いよいよか、と少しばかり緊張して歩を進めた。

 

 ところがここで、生来の方向音痴が足を引っ張る。方向音痴はGoogleマップを使おうが何しようが道に迷うのである。暑さで思考が停止していたのだろうか、馬鹿みたいにまっすぐ進んでいるうちに、よくわからない住宅地に出てしまった。時刻は五時を回っていたと思う。献花台が何時まで設営されているのかわからないが、あまり遅くなるのはまずい。

 ひとまず駅までの道を戻ってやり直そうとしていたところ(私にしては英断だったと思う)、塀の隙間から、第1スタジオの背面がちらりと覗いていた。何だか裏口のようで、そこから入っていいものだろうかと迷っていたら、近くの男が「いや間違ってないから、行きたいならさっさと行けよ」的なジェスチュアをしたので、それでもいくらか躊躇いつつ、おずおずと入っていった。このあたりを花を持って歩くのは、献花目的と宣伝して回っているようなものだ。

 

 明るい橙色の壁面とどす黒い焼跡のまだらになった建物を見上げたときの気持ちを、どう表現したらいいかわからない。ニュース番組でたびたび報道されていた通りだったし、それなりに覚悟もしていたはずだったが、いざ目の当たりにすると、あまりに剥き出しの現実に、やはり全身から力が抜けていくような気がした。建物が解体されず、ずっと原形を留めているのがまた痛ましかったのだ。それは逃げ場のない、内に籠もった暴力の痕をそのままに刻印しており、焼失したがらんどうの内部をかたくなに守り続ける外壁は、なんだか剥製のような不気味さを感じさせる。

 献花台を探したが、それらしきものは見当たらなかった。もう片付けられてしまったのだろうかと不安になった。そうでなくても、花束を手に提げてうろうろするのは気恥ずかしいのだ。勇気を出して近くのおじさんに尋ねると、親切に場所を教えていただいた。また少し歩いて、ようやくあの白いテントを見つけた。

 

 予想以上の人集りだった。マスコミの人がカメラを向けたり、やってきた人々にインタビューらしき聞き取りをしたり。こういうマスコミの報道姿勢は、特に近年では嫌われる傾向にあるように思うが、少なくともそのときインタビュアー相手に話し込んでいたアニメファンは、そうではなさそうだった。むしろ積極的に聞いてもらいたがっているように、自らが京アニ作品に受けた感銘について語り続けていた。

 近づくと、警備員らしき男性に「どうぞどうぞ」と、意外なほど明朗な歓迎の身振りで、テントの中へと導き入れていただいた。目の前にはリボン付きの立派な花束が華やかに山をなしているというのに、私の右手に握られていたのはワンコインの貧相なカーネーションにすぎないのだ。もっとよいものを買っておけばよかったと、後で恥じた。

 ぎこちない動作で花を手向け、合掌した。宗教を持たず、死後の世界も信じていない癖に、さも敬虔な信者のように振る舞う。……後ろにたくさん人が並んでいて、何か悪いことをしたかのような早足で、さっさとテントから出た。

 

 このまま帰るのもなんだか名残惜しく、置かれていた四冊のメッセージ・ノートのうち一冊を開いた。埼玉から来たらしい、小学生と思しきファンが、「けいおん!」への愛を書き記したまるみを帯びた文字の群れが見えた。一行あけて私は書き始めたのだが、何か焦っていたのか、なるべく丁寧に書こうとする書き手の意志を裏切って乱雑になっていく筆致で、つい以下のようなあまりよろしくない文章を書いてしまった。「『響け! ユーフォニアム』を作り上げたスタッフの方々に、敬意は尽きません。いつまでも待っています。」

 ……じゃあ当該作品に関わっていない犠牲者はどうなるんだとか、「待っています」という言葉から漂ってくるどうしようもないファンのエゴ感とか――今からでも修正したいところだが、そうもいかない。消しゴムだって見当たらなかったのだ(あったかもしれない)。

 言い訳をさせてもらうなら、そのときは、自らが信じてもいない死後の世界の幸福を祈るより、生前に作り上げられた作品群への尊敬を以て追悼としたかった。また何より、あの鉄塔の風景が焼きついていた。とはいえ他にいくらでも書きようはあったと思うが。

 

 斯くして私の献花(と予期せぬ聖地巡礼)は終わった。肩を落として駅への道を戻りながら、なお未練がましく何度も献花台を振り返った。文字通り老若男女が集っていた。そこは確かに無言の連帯の空間であり、哀しみと親密さとが矛盾なく同居する空間だった。死者たちがいかに多くの者たちに愛されてきたか、それを証明するために生者たちはいま集まっているのだ。その単純な事実が胸を打った。

 

 日が暮れかけていた。橋を戻りながら、夕空にいくらかシルエットになったあの鉄塔を眺めやったとき、ようやく目に涙が滲むのを感じた。思えばなんて綺麗な画面だったことか。ああいったシーンのひとつひとつが、あのスタジオ以外には提供することのできない貴重な体験だったのだ。だが、「いつまでも待つ」という取り消し不能の言葉については、せめて責任を持とうと思う。たとえ20年かかろうと、それ以上かかろうと、死者たちの紡いできた画面が生者に受け継がれるそのときを、私は待つつもりでいる。