『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』とひとつの個人的な記憶

(ネタバレに一切配慮していないのでお読みになる際は御注意ください)

 

 大学一回生の頃、深夜のバラエティ番組で、名門の吹奏楽部を追ったドキュメンタリー的なコーナーをやっていた記憶を、ふと思い出しました。まずはその話から始めます。

 かつての名門校が、昨年は潸々たる成績。今年こそは頑張って、去りゆく先輩たちに堂々と花束を渡すんだと意気込む女の子。いやがうえにもテレビ向きの、盛り上がるシチュエーションです。勝利のみを求め、彼女たちは全てを擲って練習に没頭します。お決まりのやつですね。かなり記憶が曖昧なんですが、『響け! ユーフォニアム』の劇伴も使われていた気がします。

 ところが現実は小説やアニメのようにはいかず、彼女たちはあっけなく予選落ち。すると、これまで熱っぽく彼女たちの青春を追い続けていた番組は、やにわに冷淡になり始めます。泣き崩れる彼女たちの後ろ姿を手持ちカメラでいささか不躾に撮りながら「彼女たちの夢は叶わなかった……」とあまりに素っ気ないナレーションを挟み、ぶつ切れのゴミみたいな編集でそのコーナーは幕を下ろしてしまうのです。ワイプで映るタレントさんたちが、どう反応していいかわからない的な微妙な表情をしていたのも印象的。私は陰キャなので部活などに執心している人間などうっすら見下していたんですが、それでもこの番組を観てしばらくは、そうしたある報われなさについて、あてもない思惟をめぐらしてしまったのを覚えています。

 

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 ©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 

 ……いいかげん本題に入りましょう。『劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』という作品は、ごく大雑把に言えば、〈呼称〉〈闘争〉〈継承〉の三つの主題によって構成されています。

 まず〈呼称〉。人の名前を呼ぶことです。当たり前のことですが、「誓い」ではこのことにひとかたならぬ意味が付与されているわけです。これは冒頭から明らかであり、例えば一年生の月永求は名字で呼ばれることを激しく嫌い、名前で呼ぶように訴えます。同じく一年生の鈴木美玲は「W鈴木」とか「みっちゃん」とかいった呼ばれ方を拒絶し、そんな彼女はどうしても孤立してしまいます。また三年生の加部友恵の呼び方も「加部先輩」から「加部ちゃん先輩」へと移り変わります。その後彼女はある重大な決心をするわけですけれども。

 なぜ〈呼称〉の問題がこれほど重要になるのかと言えば、それは勿論、1年生の加入による彼女たちの関係性の変化があるからです。これはこの映画のひとつのメインプロットと言ってもよいでしょう。呼び方を決めるというのは他人との距離感を測ることでもありますから。いくら実力主義って言ったって、人の集まりなのだからこのへんは避けて通れない。

 それにしても、美玲をめぐるエピソードは興味深いものがあります。美玲は実力があるので、自主練なんかせずにさっさと帰宅してしまいます。一方で同じく鈴木姓のさつきは自主練に積極的で、先輩たちをどんどん味方につけていく。つまり自主練というものが、文字通り技術向上のための自主的な訓練というより、むしろ周囲と溶け込むための儀礼的習慣として捉えられているわけです。これは結構鋭い観察だと思います。後の努力と結果をめぐる問題にも繋がるところですね。

 久美子は指導者として、この問題を解決しなければなりません。それは次期会長就任へのひとつのイニシエーションでもあったでしょう。ようやく〈呼称〉の問題を乗り越えたとき――月永求が名前で呼ばれるようになり、美玲が「みっちゃん」の呼称を受け容れたとき――、次なる主題、〈闘争〉の主題が本格的に顔を覗かせ始めます。

 

 〈闘争〉というのはいつも勝者と敗者を生みます。報われた努力があり、報われない鍛錬がある。久美子たち北宇治は、まあ全国大会で負けはしましたけれども、概ね勝者としての物語を歩んだと言ってよいでしょう。しかし、もしかしたら負けていたかもしれない。もしそうなっていたら……。

 本作初登場の一年生、久石奏の主張は単純なものです。先輩たちが麗奈のソロを認めたのは、結果が伴ったから。もし全国に行けていなかったらどうでしょう。高坂先輩の立場はどうなっていたのかしら。現に私はそうだった。実力主義なんて欺瞞。……言われてみれば当たり前ですが、実力主義イデオロギーというのは将来的にしかるべき結果を出すということ以外に正当性の根拠を持っていません。それに引き替え、かつて北宇治高校吹奏楽部を支配していた縁故主義は、やはり強い。〈呼称〉の議論で述べた通りですが、組織は人間の諸関係の集合によって形成されるのですから、これは当然です。そして何より、このことを指摘してみせる彼女のリアリストとしての不敵な冷笑ぶり。彼女の存在はこの映画の白眉です。

 しかし、そんなのは所詮、小さな問題に拘泥しているに過ぎないとも言えます。もっと他に大事なことがあるのではないのか。……久美子の説諭は、要はこういうことを言っているのだろうと私は思います。

 再び1期の再オーディションの場面に立ち返ってみましょう。そこで露呈されるのは実力主義の挫折です。多数決で決めるというのは、制度的には、縁故主義で決めると言っているのと同じことです(無論、滝先生は彼女たちにそうではない何かを期待しているわけですが)。結果的にはほとんどの者が態度を決めかねて、この勝負は決着がつきません。実力主義縁故主義というイデオロギー対立それ自体が行き詰まりを露呈したとき、香織先輩の「吹けないです」の一言が出てくるわけです。そして香織先輩が「上手ですね」と言われて「上手じゃなくて、好きなの」と答える人間であることが、直後のシーンに示されます。

 つまり「好き」だから譲ったんですね。だから、そこに描かれているのは卑小なイデオロギーの勝った負けたではなく、それを越えたところにある良い音への無償の肯定であり、彼女たちの音楽が何かの従属物であることをやめる瞬間です。久美子はそれを目の当たりにしたが故に、次の回で「うまくなりたい」と叫ぶことになります。良い音楽をひたむきに欲望し続ける今・ここの意志。それはコンペティションとしての〈闘争〉の中にありながら、それを越えて彼女たちを突き動かす強烈な希求です。久美子は一年間の〈闘争〉を経て、それをはっきりと掴んでいる。だから彼女は奏のリアリズムに対峙することができたわけです。このあたり、大音量の劇伴に加えて雨まで降らせるのでやはり若干の演出過剰感があります*1けれども、やはり素晴らしいと言わなければならないでしょう。

 〈継承〉はもう言うまでもないですね。エンドロール前のシーン。頑張ったって意味なんかなかったんだと相変わらずシニカルな言葉を並べる奏に、久美子は悔しいかと聞く。奏は悔しいと言って遂に涙します。久美子から奏に継承されるのは悔しさです。その後久美子が部長になったことを示唆する場面を以て〈継承〉の主題は再確認され、この映画は幕を下ろす。そこには無論、部長という〈呼称〉の獲得があり、奏の涙が示唆する新しい〈闘争〉の予感が描き込まれています。

 

 ……こう言っておいて何ですが、正直に申し上げれば、「誓い」はひとつの作品としては、構成を欠いた散漫な印象の拭えない映画です。それにもかかわらず私が感銘を受けたのは、全く個人的な理由からです。まず、ごく単純にこのシリーズのキャラクターたちの物語にもう一度立ち会えたことが嬉しかった。みぞれと希美の音楽を介した美しい交歓を見られたこと。あがた祭りで秀一と一緒にはしゃぐ久美子を見られたこと。思えば満面の笑顔を見せることが少ないキャラクターだったように思いますし、久美子。

 それにこの映画は、私の中でずっとひっかかっていた報われない鍛錬というものに、きっと慰めではなかろう何かを見出させてくれたように思います。私は「誓い」を、そうした私的な思い入れ抜きに見ることができません。

 

*1:これは近年京アニの宿痾ともいうべきところですね。