『true tears』の何がすごいのか

 『true tears』が好きです。P.A.Works作品どころか、これまでに見た全てのアニメ(劇場用アニメ含む)の中でも、いちばん好きと言い切れますし、恐らく今後どのようなアニメ作品を目にしても、ディズニーやピクサーがいかにグローバルな高度映像技術と大資本を投下しようとも、私の中でこの「いちばん」が脅かされることはまずないだろうとも思っています。

 もっとも、これはあくまで「いちばん好き」なのであり、「いちばん優れている」とは必ずしも思っていません。作画は全編通して高レベルと呼びうる水準に収まっていますが、同世代の他のアニメと比べても飛び抜けて凄いというほどではありません。主人公の高校生眞一郎が、幼馴染で同棲中の湯浅比呂美(実の妹ではないかとの疑惑浮上中)と学校で知り合った石動乃絵のふたりから好意を寄せられフラフラ、というプロットも、それほど特殊なものではなく、むしろゼロ年代にありふれていた青春ラブストーリーの一類型として受け取られるでしょう。また後半の物語展開はやや混乱が見受けられ、その突飛とも言える演出も含めて、どこかしらいびつな印象を見る者に与えます。まあしかし、否そうであるからこそこの作品は素晴らしいのですが。

 

 さて、じゃあこの作品の何が凄いのかといえば、ひとことでいえば詩的であるということです。詩的であるといっても色々あるのですが、たとえば雪とか鶏とか木の実とか、我々が見慣れた様々な物事を、凝りに凝った語り口で、作品世界の中に美しく描き出そうとしたことが挙げられます。

 これではよくわかりませんね。私にも実はよくわかっていないのですが(「好き」を言語化することの難しさを私はいつも痛感しています)――ポール・ヴァレリーは「歩行と舞踏」という喩えで散文と詩の違いを表現しています。散文=歩行は移動のためになされるものであり、読者を論理的を対象へと導くのに対して、詩=舞踏は踊ることが目的であり、つまりは言葉を操ることそれ自体の美しさをこそ追求しようとする営みであると。

 通常、雪だのマフラーだの何だのは、予め設計された「物語」の進行を円滑にし、あるいは装飾するために配置されるものです。しかし『true tears』の場合、むしろそうした小道具、細部それ自体が、様々なイメージや寓意を宿し、それらの絡み合いや連なりに導かれて「物語」が描き出されるというか……これも大概抽象的な話ですが。

 

 まあ具体的な表象に目を向けてみましょう。たとえば『true tears』において重要なモチーフのひとつとなるのが「雪」なのですが、これは乃絵の暗喩として描かれるんですね。「のえがすきだ」という眞一郎の告白は雪の上に書かれますし、「雪」は空から落下するものなので、乃絵が木から落ちてくる描写と重ね合わせることもできます。加えて乃絵は4話において、(眞一郎の心象風景として)「雪を降らせる天使」として表象されています。天使(的な存在)が地上に墜ちてくるわけですから、これは一種の堕天であり、乃絵の天上的なイノセンスの喪失を含意しているかにも見えます。

 

 

 一方で比呂美にとって「雪」は、義母との確執の象徴であり、恋敵の象徴です。彼女にとっては「雪」は自らを眞一郎から疎外する呪いとなります。義母に眞一郎との血縁関係を仄めかされた日から、今まで好きだった雪が嫌いになったと語る比呂美に、石動純(諸事情により好きでもないのに付き合うことになったイケメン。乃絵の兄)は「好きなものが好きでいられなくなるってキツいよな」と告げますが、では純が「好きでいられなくなる」ものとは……という感じで、これは後々の展開の伏線になります。

 8話での比呂美の「雪が降っていない街(に連れて行って欲しい)」という暗喩的な台詞は、乃絵からの――また義母からの――、自らを抑圧する存在たちからの逃走として捉えられます。その後バイクは転倒・炎上し、この逃走劇は失敗に終わるわけですが、考えてみれば「火」は「雪」を融かすものですから、その後に比呂美が義母と和解し、眞一郎に急接近しはじめ、恋人の地位を乃絵から奪い取るのも、こうしたイメージとの連関が窺えます。そういう点からいえば、「雪」は融ければ水になるわけですので、最後に乃絵が涙を流すのも、「雪解け」のイメージで捉えることができます。

  

 「雪」というありふれた表象に、様々な意味が宿る。長くなるのでここでは書きませんけれども、鶏にも木の実にもマフラーにも、同じことが言えるでしょう。日常的な事物を詩的なイメージへと変容させ、それらが織物のように美しく交錯していく――『true tears』の素晴らしさとは、こういう所にあるのだろうと思います。