アニメ版『君の膵臓をたべたい』感想

 

 『君の膵臓をたべたい』観に行ったので以下感想(あと考察もどき)を述べます。いつもの如くネタバレにはお構いなしなので要注意。

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 © 住野よる双葉社  © 君の膵臓をたべたい アニメフィルムパートナーズ

https://youtu.be/zp162UDrtyA

 

 本作は住野よる氏による同名の青春小説をアニメ化したもの。既に実写映画が昨年に公開されており、二回目の映画化となります。大人気ですね。*1

 やはりデートムービーということなのか、劇場にはいかにもリア充っぽいカップルが沢山来ていて、中盤からずっと泣いてる女の子がいたりと、陰キャアニメオタクとしてはかなりアウェー感がありました。上映終了後は彼らリア充集団から「良かったね」とか「泣いちゃった」みたいな感想がぽつぽつ聞こえてきて、なかなか好意的な感じの反応だったように思います。

 

 さて映画の内容。根暗男子の「僕」が、病院で日記を拾うところから物語は幕を開けます。その日記(「共病文庫」と呼ばれる)の持ち主はクラスの人気者、山内桜良。彼女は「僕」にこう告げます――肝臓の病気により、自分はもう長くないと。そして「僕」は、半分なし崩し的に彼女の「死ぬ前にやりたいこと」に付き合わされることになる……というのがあらすじ。

 既にお分かりかと思いますが、この映画、ここまでの筋立てだけ見ると、何ともベタベタの難病ものメロドラマとも言えます。『余命一ヶ月の花嫁』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とかの系譜。

 しかしながら、作者ももちろんこの点には自覚的です。今作では大きく分けて三つの「ひねり」を加えることによって、既存の恋愛悲劇の類型性を逸脱しようとする試みがなされています。本記事では、この点について少しばかり注目してみようと思います。

 

 まず一つ、非常に外形的なレベルの話ですが、桜良の死因が実は病気ではないということです。彼女は限られた命を全うすることさえできない。これはかなり衝撃的かつ虚無的な展開で、こうした筋立てを採用することには、かなりの勇気が必要だったと思います。受け手の意表を突くにしても、「病気が予想外に早く進行して死ぬ」とか「実は犯人はあの元カレ」とか、色々他にやりようはあったはずです。しかしこの物語においては、そうした「死」に対する物語的な意味付けや虚飾の一切を拒絶して、ただ「誰にでもあった可能性」としてそれを描こうとする。この展開に対する解釈は色々あるでしょうが、僕としては「死」の、普遍的かつアンチクライマックスな性質をこそ描きたかったのかな、という気がしました。

 とはいえ(実写映画のときも思いましたが)この展開をあまり良いとは思えません。伏線があるとはいえ、あまりにも偶然性に依拠しすぎだと思うからです。たまたまあの待ち合わせの日に、あのメールを送ったタイミングで、たまたま通り魔がやって来て死ぬ、という不運な「偶然」。筆者の家に突然美少女が押しかけてきたり、気紛れで買った宝くじ1枚で3億円ゲットしたりするのと同程度の「偶然」でしょう。「負のご都合主義」というか何というか……。

 

 この辺は色々言いたいことがあるんですが、まあそれは置いといて、二つ目。「僕」と桜良の関係を、あくまで恋愛関係として描かなかった点です。

 このことは、あの雨のシーンで「僕」が初めて年相応の性衝動をあらわにするあの場面によくあらわれています。桜良は面白半分に「僕」を誘惑しますが、冷静さを欠いた「僕」が桜良を押し倒したとき、彼女は泣いて嫌がってしまう。それで「僕」は我に返り、彼女の家から逃げ出す――この危うさのたちこめるシークエンスは映像としても秀逸だなと思うのですが(あと「僕」の童貞丸出しの感じが面白い)、何が「危うい」かって、あの場面こそ、二人の関係が変質してしまうか否かの、ぎりぎりの分水嶺だったからです。桜良はこの無二の関係の「恋愛」への変貌をこそ畏れ拒絶したとも言えるわけです。

 また二人は病院で抱擁を交わしますが、直後に桜良は親友の恭子(後述しますがこのキャラは最高に良い子)に対しても全く同じように抱きつくので、これも恋愛のサインにはなりえません。

 確かに一緒にいるとときめくし、激しく求め合っているけれど、恋愛ではない――この描き方は、とても良かったと思います。「僕」が彼女から受け取ったのは、他者との交わりという人生観であり、ある意味では桜良という人間の生そのものであって、それは「恋」などというものに矮小化されるべきものではないからです。

 

 三つ目。これこそ最も重要なポイントだと思うのですが、「恭子」というキャラの存在が挙げられます。彼女は桜良の親友、病気がちの桜良をいつも気にかけて、彼女にくっついている(ように見える)「僕」をひどく毛嫌いしています。ですが恭子は、桜良がもうすぐ死ぬことを知らない。繊細な彼女が心配しすぎるのを心配して(変な日本語)桜良が教えてあげないからです。

 桜良の死後、「僕」から初めて「共病文庫」を手渡された恭子は、その時初めて彼女の余命のことを知り、涙を流しながら「僕」を厳しく詰ります。――教えてくれていれば、部活も学校も辞めて、ずっと桜良の傍に居たのに。

 けれども、まさしく恭子がそういう人間であったからこそ、桜良は病気のことを教えるわけにはいかなかったのです。お互いのことをあまりに深く想うがゆえに、残酷な真実を最期まで共有することができない。何度観ても切なく美しい関係だと思います。

 

 しかし大事なのはここからです。前述したとおり「僕」と恭子は深く断絶し、対立する関係として描かれています。一方で、共通の友人である桜良は、二人に「仲良し」であってほしいと語ります。そして彼女の死後、「僕」はその遺志を実現すべく恭子を追いかけ、「許してほしい」「いつか友達になってほしい」と呼びかける。エンドロールの後、恭子が「僕」にガムを寄越す(一度でもこの物語に触れた方なら言うまでもないと思いますが、「ガムの手渡し」はこの物語で他者との繋がりを示す機能を帯びています)場面を以て物語は締め括られる……

 ここから見えてくるのは、実はこの作品の主題は「僕と恭子」の関係にこそあるのではないか、ということです。性別も性格もクラスに於ける立ち位置も何もかも違う、徹底的な他者としての両者。その二人が、桜良という死者の存在を介して「仲良し」になる――そのとき、この映画は、この手のメロドラマが陥りがちだった恋愛至上主義や「君と僕」の閉鎖的な関係の域を越えて、より普遍的な他者との交流を物語ることに成功しています。

 兎にも角にも、「恭子」というこのうえなく魅力的な少女。彼女の存在こそが、この映画を感動作たらしめていると思います。

 

 色々書きましたが、総体的には結構楽しめた映画でした。何より「僕」と桜良の過ごした時間の幸福を、観客も共感、共有できるような説得力がちゃんとあった気がします。ときに漫才みたいな2人の掛け合いは聞いていて楽しかったですし、あのホテルでのドキドキ感と残酷さの入り交じった感じも好きでしたし。まあ、前述したような不満点はやはりありますし、『星の王子さま』になぞらえた幻想的なシークエンスはアニメならではの演出と言えるかも知れませんが、ちょっとしつこく感じてしまったり、「傑作!」とはなかなか言いにくい感じではあるのですが。

 

 あと、個人的な好みを言えばキャラデザがすごく良かったです。桜良も恭子も超かわいい。主人公の「僕」はネクラ感とイケメン感がうまい具合にブレンドされた感じ。

 

*1: 実写映画版も一応観ましたが、こちらは正直にいえば「うーん……」という感じでした。12年後に高校教師になった主人公が、教え子に過去を語るという形式を取っているのですが、これがどうもしっくりこなかった気がします。もちろん悪い映画ではないですが。