北条裕子『美しい顔』感想――ワイドショーと文学

 

 現在話題になっている北条裕子『美しい顔』読みました。特にこの小説に興味があったというわけではなく、出版社が無料での全文公開に踏み切ったので、便乗してタダ読みしただけですが……。芥川賞の有力候補作ということもあり、せっかくなので感想でも書いておこうと思います。

 

 

 なお今回問題となった剽窃疑惑そのものについては言及しません。「参考文献」を今のところ全部読めていないし、こうしたデリケートな問題に関して素人判断は控えるべきだと思うからです。

 

 小説の感想を述べる前に。震災と関係のない人間が震災を主題に小説を書くということの是非ですが、これ自体はとりわけ問題はないと僕は思います。小説の特質として「当事者でないから書ける」という面は確かにあるわけですし、常識的に考えても、小説家が経験していないことを書くのはごく当然のことでしょう。

 ……しかしまあ「文学のワイドショー化」という問題はそれはそれでありますし、たとえば現在さかんに議論されている「文化盗用」の問題なんかもそうですが、フィクションの名の下にマジョリティがマイノリティのことを好き勝手書いていいのかみたいな疑問も当然あります。当時と現代では文学のありようも全く異なるので、現代の作家にはまた異なる美意識やモラルが求められるのかもしれません。

 

 それは置いておくとして、感想。

 風変わりな小説です。震災を舞台にした一人称小説ながら、作者は被災者でもなければ現地に行ったこともないと公言し、若い女性のお喋りのような文章はお世辞にも整っているとは言い難い。これをどう読むべきでしょうか。

 この小説は全編「私」の語りによって成り立ち、マスコミを中心とした震災の「物語」化を批判するものです。主人公は悲しみを悲しみのままに受け入れ、凡庸な、それ故に恐ろしい「日常」へと回帰していく。そこには、我々が震災文学を読むにあたって内心期待してしまうようなドラマはありません。「語り」によって「物語」が批判解体されていくというのは、何だか現代文学的な試みでもある気がしますね。

 とはいえ、読者は直ちにひとつの疑問を抱くはずです。この作者のやってることって、作中で批判されてるマスコミ的な取り上げ方と大して変わらないんじゃないの?

 実際その点は作者も自覚しているらしくて、語り手=「私」は常にみずからの言葉に戸惑い、逡巡を重ねます。「私」はマスコミを脳内でボロクソに言った後、ふと我に返ってこう述べます。

  私は自分をこれほどまでに汚らしく思ったことは、いまだかつてなかった。脳味噌が勝手に邪悪な言葉をやすやすと並べ立てていくのをどうすることもできなかった。あふれ出してとまらない卑しい言葉の洪水に溺れそうだった。

   マスメディア=「物語」に対するアンビバレントな感情。「語り」の内包する自己矛盾との絶えざる格闘こそが、この小説のテクストを構成しているかのようです。「小説」という内面描写を得意とするいうメディアの美質が活かされているとも言えますが、即ち現代において、ワイドショーと文学にどのような差があるのか? という問いこそ、この小説の文学的な問いかけであり、挑戦なのだと思います。だとすれば、決して美的と言えないこの荒い文体も、技術上の理由があって用いられていることがわかります。

 

 ……ただ読み終えて、ごく率直に「俺、この小説好きじゃない…」とは思いました。

 何というか、自己陶酔を批判しているはずの文章が、むしろ自己陶酔に陥っている、ないしそれらの区別がつかないような部分が目につくんですね。母との「再会」もラストシーンもなんだか読者の涙を煽る過剰表現や紋切り型の連打に堕してしまっている気がします。

私はいくども心の中で呼びかけてきた。母さん、悪いんだけど、やっぱ、大学じゃなくて専門に行きたい。そうさせてほしいの。私、やっぱり、福祉の仕事やりたいわ。災害とかにあった人が看護とか福祉とかに興味もつってすごいありきたりって感じだけどさ、私、自分がありきたりでいいって思えたんだよね。

 海面が銀色に光っていた。海面は一時も静止せず、あらゆるものを排除する残酷さとあらゆるものを受け入れる寛容さでとどまることがない。

 うーん……

 終盤の「奥さん」の台詞もなあ。安い探偵小説の種明かしパートみたいな説明的な感じで「え、それ直接言わせちゃう?」って感じなんですが、何より被災者に対して「文学」が説教をするという、一番やってはいけないことをやってしまっていて、読んでいて非常に違和感がありました。 

「だけどね、このあなたが、今苦しんでおけば、今苦しみ抜いておけば、いつか必ずお母さんのことを、やすらかで穏やかな存在として受け容れられるようになっていきます。今は、そんな日は決して来ないだろうと思うでしょうけど」

「どうにもできないってわかって、そのことに怒ったり泣いたりするしかないの。苦しんで苦しんで、苦しみ抜くしかないの」

  読んだ方なら分かると思うんですけど、この後に続く「私の死んだ息子も……」みたいなくだりも、何だか母性神話っぽくて胡散臭いですよね。愛した人の無惨な死体を見たくない、見なくて良かったという方だって当然いらっしゃるでしょうに。そんなの本当に普遍的なことなのか? そうした人生訓を「文学」が押し付けていいのか?

 総体的には、試みは理解するにしても、結局のところは所謂「感動ポルノ」的なところから逃れられてない感じがして辛いというのが僕の正直なところでした。まあ何かを批判していた人が、いつのまにか批判対象と似たような存在になってしまうというのはよくあることですが、この小説もそんな感じだったなあ、と。

 

※引用部は全て北条裕子『美しい顔』(講談社)より 

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

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