シャニマス半年やってみた所感

アイドルマスター シャイニーカラーズ」(以下シャニマス)というゲームをインストールしてから、おおよそ一年が過ぎました。最初の方はほぼ放置状態だったので、実質的にプレイしたのは半年ほどになります。

わたしがシャニマスに興味を持ったきっかけを書いておくと「明るい部屋」というシナリオイベントをTwitterで聞き知ったことです。『明るい部屋』と言ったらロラン・バルトの引用じゃないか、いったいどんなアイドルゲームなんだ……と、文学院生としては興味を惹かれざるを得なかったわけです。以下に書くとおり多くの不満点は感じつつも、おおむね楽しませてもらっていると思います。

今年もそろそろ終わりますから、このあたりで一度、このゲームについて思うところをポジティブ・ネガティブ両面でまとめておきたいと思います。なお基本的には微課金、グレードフェスはLv.4という極めてしょうもないレベルのユーザーによる評価だということを、あらかじめ断っておきます。

 

シャニマスのよいところ

これは何と言ってもキャラの魅力であり、彼女たちを彩るイラストとシナリオでしょう。もはや語り尽くされていることですから、ここには詳述しません。わたしが初めてW.I.N.GでTrue Endを見たのは七草にちかというキャラなのですが、正直、思わず落涙したのを覚えています。このキャラクター、たぶん「反抗期の娘がいる気分を味わいたい独身ミドル層男子」を狙った造形かなと思うのですが、自己表現の夢を追いながら何者かのコピーに甘んじるほかない、どこまでも凡庸な彼女の姿は、現代の少年少女の多くが共有する心象を、そのまま体現しているような感もあります。彼女に自分を重ねる十代のプレイヤーも多いのではないでしょうか。

 

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わたしのいちばん好きなキャラは有栖川夏葉です。社長令嬢にして頭脳明晰容姿端麗、フィジカル面の鍛錬を怠らない自信と向上心に満ち溢れたキャラクターですが、他方で同じユニットの年下の少女たちと一緒にはしゃぎ回ったり、焼きそばにプロテインを入れようとして怒られたりと子供のような一面もあり、そういうところが所謂「ギャップ萌え」ということになるのでしょうか。

とはいえ、それを「ギャップ」とは感じさせないところにこそ、彼女の本当の魅力があるのではないか、とも思います。育ちの良さゆえの子供っぽさとでも言えばいいのでしょうか。これは個人的な体験ベースの話になってしまうのですが、わたしがこれまでの成長過程で会ってきた所謂「良家の子女」たちは、たいてい驚くほど無邪気です。きっと彼ら彼女らにとって、世界は畏怖や疑念の対象ではなく、どこまでも刺激と愉しみに溢れた場所なのでしょう。世界と自分とは本来的に幸福な関係で結ばれていて、自分が求めるほどに、世界はその求めに応えてくれるはずだという確信――単純な金銭的余裕や学力ではない、「育ちの良さ」という特権の本質はそこにあるのだと、ティーンエイジャーだった頃のわたしは、嫉妬混じりに感じていたものです。わたしが夏葉に惹かれるのは、彼女の見せるそのような身振りひとつひとつに、何か自分の体験と不可分の「育ちの良さ」への羨望を喚起させられるからなのかもしれません。

 

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にちかや夏葉だけではなく、シャニマスのキャラクターには、どこか妙な実在感があります。それは言い換えれば「リアリティ」ということになるのでしょうか。当然ながら、あんな風に年上のサラリーマンを慕ってくれる美(少)女たちが現実世界に存在している、と言いたいわけではありません。しかし「こういう人を、どこかで見たことがある気がする」とそう思わせるようなキャラ造形の強度。これこそシャニマス最大の美質だと思っています。

 

ゲームとしてはどうか

ここまで、シャニマスに感じた魅力について、それが端的に「シナリオとキャラ」によるものであることを述べてきました。ここからはゲームシステムの方について踏み込んでいきます――が、結論から言えばこっちは不満だらけです。

内容について論じる前に、シャニマスというゲームの簡単な流れを確認しておきます。

プレイヤーはまずガチャを引き「プロデュースアイドル」と「サポートアイドル」を入手します。そして「プロデュースアイドル」1人と「サポートアイドル」4+1人でグループを編成し「プロデュース」をします。現在4種類の「プロデュース」形式がありますが、いずれも「プロデュースアイドル」を育成して「ライブ」での勝敗を競うという点で共通しています。これを終えると「プロデュースアイドル」は、その育成成果に応じた「フェスアイドル」となります。で、プレイヤーはこの「フェスアイドル」を集めてまたグループを編成し、今度は「グレードフェス」(グレフェス)と呼ばれる方式のライブに挑むことになります。かくして、育成とライブを繰り返して強くなるというのが、大筋の流れになるわけです。

シャニマスの特徴は、このライブの形式が、いわゆる音ゲーにはなっていないという点にあります。つまりリズムに合わせるという要素はなく、単なる目押しです。具体的に言えば、何色かに色分けされたゲージをバーが行き来しており、白い部分に差し掛かったところで画面を叩くと成功、逆に緑や紫の部分で叩くとミス扱いになります。これにまた「流行」や「テンションチェック」などの運要素が絡んでくるわけです。

このシステムには、大きく分けて2つの問題があると思います。1つには、「目押し」それ自体がほとんど何のゲーム性も持っていないということです。紙芝居のような背景から浮かび上がってくる謎の棒を、適切なタイミングでタップするだけの簡単なお仕事。もちろん状況に応じて「思い出アピール」のタイミングを見計らうとか、敢えてPerfectではなくGoodを取ることでラストアピールを狙うとか、戦略的な思考が介在する余地がないわけではないのですが、それにしたって原理的な単調さは拭いがたい。これなら育成要素だけでいいじゃないかと思わせかねないこの単調さを、どう解消するか。

――というような問題意識のもと(かどうかは知りませんが)、去る今年10月、シャニマス運営が提示してきたソリューションが以下の画像です。

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期間限定イベント、その名もフェスツアーズ。画面から想像されるとおり、ひたすらライブを繰り返して一歩ずつ前進していくというこのイベントは、その報酬ラインの高さによって、いっそう苦行の度を強めています。例えば、今回の目玉報酬である櫻木真乃の衣装「ドレスアップパルファム」を手に入れるためには、ライブを480回ほどクリアする必要があります。

そもそもライブ=「目押し」がつまらないのが本質的な問題なのに、ライブを何百回もやらせるイベントを実装する、これほどの背理はありません。これは、シャニマス運営が問題を解消するアイディアや能力を持っていないか、あるいは「ライブがつまらない」という問題意識じたいを共有していないかのいずれかであることを示唆しています。つまり改善の見込みがあまりなさそうだ、ということです。

もうひとつの問題は、このライブ=「目押し」システムが、楽曲ともダンスとも繋がっていない――つまりアイドルの本質を構成する「歌と踊り」とは何の関係もないという事実です。もとよりデレステにせよスクフェスにせよ、アイドル系コンテンツのソシャゲは、音ゲーであることによってその強みを活かしてきました。つまりゲーム体験を重ねるほどに、プレイヤーは様々な楽曲をプレイし、その音楽群が織り成す世界観の中へと自然と入り込んでいけるという仕掛けです。そこにまた、3DCGによるダンス映像が加わることもあるでしょう。

シャニマスの場合、「歌と踊り」の魅力とゲームシステムとが、ほとんど連動していません。せっかくの楽曲群は、ライブ=「目押し」のバックミュージックとして流れるばかりで、ゲームの体験の中に組み込まれていない。したがって、アイドルコンテンツであることの強みが発揮されておらず、プレイヤーの記憶に残るのは、ライブ後に表示されるしょっぱい動画と「今話題のアイドルたちが登場!圧巻のパフォーマンスを披露!」という謎の文言ばかりです。何がどう「圧巻」なんだ……。

音楽面について言えば、シャニマスはやはり全体曲やユニット曲よりも、個々のキャラの個性を活かしたソロ曲の方に強みがあると言えます。「Damascus Cocktail」や「夢見鳥」もいいですが、個人的には「プラスチック・アンブレラ」がいちばん好きですね。余談になりますが「驟雨、今夜降るでしょう/無数、歩く人/人、人、人……」というフレーズは、どことなく『ノルウェイの森』のラストシーンを連想させます。

まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。(中略)僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(『ノルウェイの森』)

これは完全に妄想ですが、たぶん三峰は村上春樹を愛読しているタイプだと思うんですよね。大学のゼミで一緒だったハルキストの女に雰囲気が似ている。

……それはさておき、これらの楽曲は、単純にクオリティが高いだけではなく、聴いた瞬間、彼女たちのキャラクターや物語が自然と浮かんでくるというのがキモです。キャラクター・ビジネスに求められている楽曲の特質とは、まさにこの種の喚起力でしょう。このような優れた楽曲群を、もっとゲームの中に有機的に組み込めたら、また異なる地平が見えてくるのではないかという気がします。

 

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「シナリオが面白いソシャゲ」の陥穽

これまで書いてきたことをまとめると「シャニマスはシナリオとキャラに魅力がある」「しかしゲーム性は乏しい」ということになります。とするとシャニマスの本質的な価値は「金か時間を払ってシナリオを買う」という営為に存していることになってくる。しかしこれもまた、色々と問題含みだと思うのです。

単純な話、「課金してシナリオを購入するゲーム」というものを提案されたとき、人はどう思うでしょうか。「動画サイトで転載動画を見る」という考えが一瞬も思い浮かばなかった人は、今日かなり例外的な良識を維持している人だと思います。一般的な現代っ子は「Youtubeか何かでちゃちゃっと見ればいいじゃん」と考えるでしょう。

実際、二次創作や実況プレイ動画では人気なのに、それがいまひとつアクティブの増加に繋がっていない印象があるのは、この点に原因がある気がします。シナリオの良質さは、必ずしも「自分もやりたい」という欲望には繋がらないわけです。そうなるとプレイヤー層の裾野は広がらず、収益を上げるためには一部のコアユーザーからとことん搾り取っていくしかなくなり、それが「有償ガチャ」の乱発に繋がって、さらに裾野を狭めてしまう、といった悪循環がありはしないか。

こう考えていくと、そもそも「良質なシナリオをがっつり読ませたい」というコンセプト自体が、ソーシャルゲームという形式と相性が悪いのではないか、という疑問が湧いてきます。

これは前述した商業上の事由だけではありません。ソシャゲはその存在論的な要件として、絶えず自らを更新し続けていくことが求められます。つまり、そこで展開される物語は、一個の物語としては完結し得ないまま、どこまでも建て増し住宅化していくことになるわけです。

それがシナリオの質に及ぼす影響は、今は措いておきましょう。建て増し住宅化するということは、プレイヤーの側にとって、把握しておくべき設定やエピソードが不可逆的にどんどん増えていくということを意味します。よって必然的に、新規参入のハードルはその分だけ高くなります。気になるキャラを見つけてシャニマスをインストールしたけど、読むべきシナリオが多くて追いつけない、なかなか手に入らない限定コミュが沢山ある、ファンコミュニティは自分の知らない話で盛り上がっている……新規ユーザーの誰しもが、こうした思いを味わうことになるでしょう(私もそうです)。

 

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もっともソシャゲにおいて「新参」と「古参」、あるいは「ライト勢」と「ガチ勢」の格差は付きものです。しかし大抵の場合は、修正資本主義よろしく運営側が「新参」「ライト勢」向けに強いカードを配ったり、無料でガチャを回させたりすることで、ある程度はこれを解消することができます。しかしシャニマスのように、どちらかと言えば「強さ」というより「シナリオとキャラの理解度」が問われるタイプのゲームの場合「ライト」と「ガチ」の溝は、容易に埋め得ないものになってしまう。資金もそうですが、時間的投資の差がもろに出てくるからです。

また多くのソシャゲでは、物語を切り詰めて単純化・記号化しているため、こうした問題が見えにくくなっています。ソシャゲのシナリオがつまらないのは、こうした形式上の制約が確実にかかわっていると思います。この点、シャニマスはまさにシナリオを売りにしているゲームであるがために、この問題があからさまに顕在化してしまうわけです。よく言われる「シャニマスは新規が定着しない」という噂が真であるならば、それは運営の不手際というより、そもそもコンセプトそのものがソシャゲに向いていないという、身も蓋もない事実に起因しているような気もします。

 

シャニマスのこれから

わたしがシャニマスをプレイしていて思うのは、もしこれがコンシューマーゲームとして世に出ていたら、傑作として名を残したに違いない、ということです。このコンテンツ全体が、どこか古き良き時代のノベルゲームの雰囲気をまとっています。運営が目指しているのも、そういう方向性のはずです。それをソシャゲの形に無理に合わせようとしたために、何か様々な面でちぐはぐさが生じてしまっているのではないか。

思えば、昨年末にプチ炎上した「方言アイドル好き必見」「元ヤンキー」云々といったクソ広告の数々は、「ノベルゲーム的なもの」と「ソシャゲ的なもの」という、シャニマスに内在する2つの方向性が、露骨な齟齬を示した出来事だったのではないでしょうか。その2つの方向性の間で、どうバランスを取っていくか。これからのシャニマスの課題は、このあたりにあるのかなと思います。

 

「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」における文章技術について

 賛否の分かれている島田彩さんの「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」(2021,以下「松のや」)をいまさら読みました。思うところがあったので、以下に述べます。

ティファニーで朝食を。松のやで定食を。|しまだあや(島田彩)|note

 

 なお文章の真実性については、ここでは問いません。事実確認は不可能でしょうし、そもそも書かれたものはすべてどこかしらフィクションであるしかないと思うからです(文章には固有の造形性というものがあって、ありのままの事実など決して映しはしないものです)。ですのでこれもフィクションとして読むことにします。

 

 さてこの文章については、例えば以下のような指摘がなされています。

 

 私も同じく、かなりテクニカルに書かれた文章という印象を受けました。主人公=書き手が「たくさん信じてよかった」「すごく楽しかった」といった幼い語彙の選択によって素朴な感性を装っているところが、なおさら巧みです。念のため言っておけば、「装っている」こと自体は、悪いことでも何でもありません。それもまた文章による造形のひとつだからです。

 ではこの文章において使われている技法は、具体的にはどういうものなのでしょうか。そこに見られるのは「時限性」「振幅」「匿名性」「数字の羅列」といったメロドラマ演出のテクニックです。

 

 まず特徴的なのが「時限性」と「振幅」です。各々に階級の異なる男女が、限られた時間を共有し、再びお互いの世界に戻っていく。その世界で最も有名な例は、もちろん『ローマの休日』(1953、ウィリアム・ワイラー)でしょう。プロットの構造だけを取り出せば、「松のや」は『ローマの休日』の変奏曲と言うことができます。感動する人が多いのも道理です。

ハンバーグとエビフライの定食を一緒に食べて、街を歩いて、公園で喋って、銭湯行って。最後に、カーディガンをプレゼントしてもらった。そして、私は家に帰り、その人は高架下に帰っていった。

 ちなみに、なぜ「格差」と呼ばずに「振幅」と呼ぶかというと、別にそれは階級的な分断でなくてもかまわないからです。男女の間に何らかの距離があり、斥力と引力が然るべき葛藤を演じてさえいれば、メロドラマは成立します。例えば『君の名は。』(新海誠、2016)は、都市と地方という落差を活用し、かつ「時限性」を導入することで、一遍の物語を織り上げているというわけです。まあ、ともあれ「松のや」が、古典的なメロドラマの文法に忠実に書かれていることは、ひとまず明らかだろうと思います。

 

 「時限性」と「振幅」が物語の大まかな形式にかかわる問題であるのに対し「匿名性」と「数字の羅列」は、どちらかと言えば細部の作り方に関するものです。「松のや」に出てくる男女は、お互いに名前も来歴も知らないということになっています。そして彼女たちの周囲には、やたら正確な時刻や金額の表記が飛び交っています。

2日目 17:30
【貸し】定食890円、タバコ560円、コーヒー130円、入湯料440円、シャンプーとボディソープ1回分
【借り】2000円、シャンプーとボディソープ2回分、回転焼1/2、ビニル袋、褒め殺し

 本編で最も技巧的なのは、おそらくこの「貸し/借り」の反復的挿入でしょう。これによって何が表現されているのかというと、一言で言えば交換可能性です。住人との交流を、こうして数字として表現していく。書き手にとって西成という空間は、誰が誰であっても構わないし、見分けもつかないような場所なのです(何度も言いますが、別にそう表象すること自体が悪いわけではありません)。そして書き手は「借り」とは違う相手に「貸し」をつくっていくことになる。これもまた文章全体の「匿名性」の性格を強めています。そして、そのような匿名的・数字的・交換可能的世界の中でこそ、書き手とホームレス男性との唯一的な出会いが、対蹠的に輝きを帯びるという仕組みなのです。

 このような「匿名性」と「数字の羅列」をもっとも効果的に用いた作家として、我々は初期村上春樹の名前を想起することができます。例えばデビュー作『風の歌を聴け』(1979)には、以下のような特徴的な文章が登場します。

そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。

 これはもちろん「彼女の死」という重い唯一的な出来事を強調するために、「6922本めの煙草」という、どうでもいい交換可能なディティールをあえて対置しているわけです。すべてが数字に置き換えられる現代都市空間の中で、置き換えがたい何かがいっそう重くのし掛かる。それこそが、当時三十代の村上春樹が表現しようとした世界でした。 

 この点で「松のや」が同型の方法を用いていることは、今や誰の目にも明らかだと思います。890円、2000円という冷たい数字の列挙の中で「褒め殺し」という人情の暖かみがいっそう際立つ。これは細部まで、かくのごとくきちんとした計画と戦略のもとに書かれた文章なのです。

 

 こうしてみるとき、「時限性」「振幅」「匿名性」「数字の羅列」というテクニックが、いかに相互連携し、巧みな効果を挙げているかが理解できると思います。また巧みであるが故に、それは現実の社会のありようを隠蔽する形で機能してしまうのだと言うこともできるでしょう。例えば「匿名性」ひとつ取っても、野宿者たちが名前や素性を安易に明かさないのは、社会の抑圧があるからに他なりません。また「時限性」は、書き手が当該都市空間の「良い面」だけを見て帰るという、観光的な精神によるものと指摘することができます。1年と言わず、一週間でも住めば、その都市の嫌な面も、社会の矛盾も、住人たちの苦しみも、たくさん目撃せざるを得ないのではないでしょうか。この文章の美しさは、そういった現実の生々しさを覆い隠すことによって成立していると言えるでしょう。

 「巧みな文章」と「良心」は、必ずしも一致しません。相反する場合の方が多いとさえ言える。いじめっ子ほど道徳の作文で良い点を取るというのは、よく聞く話です。言葉にはそういう、どこか根本的に不実なところがあるのです。こういうことは当然の世間知と思われるかもしれませんが、書く側も読む側も、あまりにしばしばそれを忘れ「巧みな文章」と「良心」を混同してしまう。美しい言葉を見かけたら、ひとまず警戒するに越したことはありません。

暗喩表現批判序説――『アイドルマスター シンデレラガールズ』(と『ラブライブ!』)を視座に

 『アイドルマスター シンデレラガールズ』(2015、以下「デレアニ」)を語るとき、人はしばしば、6話の展開を話題にします。観た方なら誰もが覚えているでしょうから詳述は避けますが、簡単に言えば初ライブで期待したより客が入らなかったというので、本田未央という子がショックを受けて失踪してしまうというエピソードです。

 3話で彼女たちに(身の丈に合わない)成功体験を味わわせておいた上で、この展開に持っていくという話運びの巧さは勿論注目すべきですが、未央の勘違いぶりや未熟さが強調されるだけに、どうしても好き嫌いが別れる。その後に続く7話は、ほとんど丸ごと彼女をめぐるトラブルの解決と説得に費やされることになります。

 この点で、強い対照性を持つのが『ラブライブ!』(2013)の3話でしょう。こちらは初ライブに身内とその他数人しか来ないという、「デレアニ」と比較しても惨憺たる結果に終わっています。しかし、高坂穂乃果はそれで失踪したりはしない。いずれもっと多くの客を集めてやろうと決意を新たにし、さっそく仲間集めの物語が始まります。良くも悪くも単純さが売り。この作品については、エンタメの定石をしっかり踏まえてそこそこ面白いということ以上に論じるべきことは(少なくとも僕には)ありません。

 この簡単な比較をとっかかりに、ひとつの図式をまずは描いておきましょう。それは『ラブライブ!』がアクションのドラマであるのに対し「デレアニ」は心理のドラマとして作られている、ということです。しかしアクションとは違い、心理を画面を直接書き込むことはできません。台詞で処理してもいいけれども、それでは芸がない――そこで「デレアニ」が多用するのが暗喩的・寓意的表象です。この記事で僕が主に批判したいのが、この暗喩という「一見凝った」技法です(この時点で、いやいや何を言ってるんだ、暗喩を駆使した映像作品なんて山ほどあるし、だいたい映画の歴史を紐解けば、人工的なセットや象徴的・暗喩的なイメージによる心理表現を特徴とする流派も存在したというじゃないか、教養のない若いアニオタはこれだから困るね、と指摘する方もおられるでしょう。そのことについては後に述べます)。

 例えば、「デレアニ」では心理が暗転すると天候が悪化する、という演出がたびたび用いられます。たとえば7話の導入は「砕け散るガラスの靴」→「雨の街」→「暗い顔のキャラ」という、文字通り絵に描いたような象徴性の連鎖によって支えられています。

 このような手法には、しかし無視できない弊害があるはずです。ひとつには、このような形で暗喩が用いられるとき、暗喩するものとされるものとの間に固定的な対応関係しかなく、言葉によって一義的に説明できてしまう、ということのつまらなさです。なるほど「デレアニ」の曇り空は未央や卯月やその他人物の心理的憂鬱を表現しているんだろう。しかし、そこで用いられる曇り空のイメージは、単なる物語の説明でしかなく、それ以上の美的、意味的なふくらみが全然ない。その証拠に、「デレアニ」の多くの演出は「これこれはあれそれの暗喩である」という風に、簡単に、過不足なく、言葉で置き換えてしまえるわけです。

 第二に、シーンの構成自体が不自然になりがちだということです。何せ登場人物の心理が曇るたびに空も一緒に曇るというのですから、そのような手法を無工夫に繰り返せば、作品世界がひどく作為的な、書き割りじみたものになるのは目に見えています。終盤顕著になる「雲に隠れた星に価値などない」「晴れない雲はありません」といったむやみと暗示的な台詞の応酬にも、このような暗喩の弊害が現れています。

 何より問題となるのが、実は23話です。渋谷凛島村卯月の手を引っ張り、すべての出発点だった公園まで連れて行く。未央も交えて思いをぶつけ合った後、卯月ひとりを残して二人は去る。

 この一連のシーンが何を意味しているかは、ひとまず明白でしょう。卯月が自発的に踏み出す一歩を待つ、そうでなければ問題は解決しない――なるほど「意味」は通っていますね。しかしそれは象徴的・寓意的なレベルで成立する話であって、より形而下的な、女の子同士の間に起きた一連の出来事として観るとき、これはやっぱりおかしい。何がおかしいんだよと言うあなたは、じゃあ(幼稚な話ではありますが)凜の立場でその場に居合わせたとして、卯月ひとりを置いていけるでしょうか。他ならぬ自分が連れてきた、明らかに精神が不安定になっている女の子を? 卯月にひとりでじっくり考えさせるため、と言うでしょうか。しかし、それは何も宵闇迫る冬の公園である理由はないでしょう。つまりここでの凜たちの心理の動きには、どうも説得されないわけです。卯月に「先に行っていい」と言わせるなり何なり、具体的な契機によって、この選択の妥当性を支えない限り、これは寓意としては成り立っていても、シーンとしては成り立たないだろう、という気がします。

 

 

 当たり前の話ですが、暗喩というのはきわめてオーソドックスな修辞技法です。文学は勿論、映画においても。僕の好きな映画をとりとめなく例にとると、『波止場』(エリア・カザン、1954)はアンテナを十字架に見立てるといった形でキリスト教的なモチーフを配置していますし、『ビリディアナ』(ルイス・ブニュエル、1960)に出てくる牛の乳やら縄跳びの持ち手やらは、明らかに男根の暗喩でしょう。

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 或いは『M』(フリッツ・ラング、1931)の、以下のようなシーンはどうか。

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 最近の映画では、『寝ても覚めても』(濱口竜介、2018)が「川」と「海」を効果的に用いていますし、日本のアニメでは、『たまこラブストーリー』(山田尚子、2014)の冒頭に出てくる万有引力(あるいはエデンの園か?)の暗喩としての林檎が印象深いでしょうか。

 しかし、これら「名作」に出てくる暗喩というのは、いずれも作品の中心的なイメージとして、ある種の「決め手」として機能しているわけです。対して「デレアニ」に出てくる曇り空、赤信号、2羽の鳥(これは8話ですか)といった暗喩表象はどうか、ということなのです。これらの暗喩イメージは、場当たり的な使用しかなされていないのではないか。心理表現の誇張や人工的な画面という点で、例に挙げた『M』を含む、表現主義映画の影響というようなことを指摘すべきでしょうか(挙げ忘れていましたが『少女革命ウテナ』(1997)なんかそういう作風ですね)。しかし、そのような作品は必然的に、ある種の異様性を画面に纏わせることになります。そのような手法が、果して「デレアニ」の物語構成に対して適切な演出か、という疑問が出てくる。要は、あくまで健全かつ端正なリアリズムを企図する全体の構成と、細部のあからさまな人工性の突出がそぐわないわけです。

 こう書くと、お前はどれだけ「デレアニ」が嫌いなのかと言われそうですが、そうではありません。例えば19話、これは文句なく素晴らしい。どのシーンも良いのですが、とりわけ多田李衣菜木村夏樹に誘われてバイクに乗る一連の場面は、不安と期待の交錯する青春の一幕を、本当に見事に切り取っていると思います。さらに23話、卯月の揺れる瞳や、震える声の表現もいい。自分を見失い、彷徨い続ける一人の少女の姿がそのような形で形象化されているからこそ、我々は共感し、また感動もするのです。それらのシーンは、もっともらしい暗喩とは何の関係もなく、そして美しい。

 

 僕が嫌いなのは、暗喩で画面を埋め尽くしておけば、さも凝った知的な構成であるかのように見做す風潮が一部にあるということです。「デレアニ」放送当時は、頓珍漢な批判が結構多くてむかついたのですが、それと同じくらい、ある種のファンがしょうもない暗喩解読ごっこに走り「こういう本格派の心理アニメが理解できない奴は阿呆」みたいな態度をとっていたのが気色悪かったわけです。ある考察ブログは、23話の「もう一度友達になろう」の後に出てくる意味深な樹のカットが何を意味してるかわからない、などと不思議なことを書いていました。このシーンから読み取るべきは、どう考えても「樹の意味」ではないでしょう。何はともあれ3人が同じものを見ている、つまり再生の希望がそこにあるということ――それだけの話だろうと僕などは思うのですが。とにかく、てんこ盛りの暗喩なんてのは「デレアニ」の本質的な魅力ではまったくないのです。

 

 こういうことを考えた――というか思い出したのは『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(2020、以下「ニジガク」)を観たことが直接のきっかけです。先述した『ラブライブ!』については、僕は無印1期をそれなりに優れた作品だと見做していますが、その分2期の弛緩ぶりにはがっかりしましたし、『ラブライブ! サンシャイン‼』(2016-2017)には本格的に失望させられ、コンテンツ自体から興味が遠ざかっていました。

 「ニジガク」は、これまでのシリーズで最良の作品であるのみならず、アイドルアニメというジャンルにおいても決定的な価値を持つ傑作だと思いますが、しかしここでも気になるのが、歩夢の心理描写に伴う暗喩の多用です。話題になった11話では、上原歩夢と高咲侑の関係の暗喩として、道路標識や赤信号が出てきました。一応、これらは全て「交通」に係るイメージですから、「バス」や「定期券入れ」といったモチーフ(これらは全て2人で同じ時間と場所を過ごすという日常性の象徴であり、それゆえ彼女たちの関係が変化する12話ではバスに乗らずに歩いていくという儀式が必要になる、云々)と繋がってひとつの中心的なイメージを構成している、と解釈できないことはないと思います。

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 しかしそうは言っても、「ニジガク」の魅力とは、やはりライブシーンの多彩な演出であり、中須かすみのコメディリリーフとしての生き生きとした躍動であり、歩夢が侑の脚を挟み込む仕草の官能性であり、うまくいかなくなった関係を再びやり直していくという反復のドラマのはずです。暗喩を沢山使っているから凄いというわけではない。そのことを、ゆめゆめ忘れずにいたいものです。

 

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『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想

 

(ネタバレ注意)

 

youtu.be

 

 

 

 MOVIX京都で「外伝」を観、そこで「鋭意制作中」の5文字を目にしてから、もう1年以上になる。重なる不運をこえて、京都アニメーションは「劇場版」を世に送った。代筆屋の少女をめぐる物語に、ようやく終止符が打たれたことになる。

 本作はヴァイオレットのかつての依頼主の娘アン・マグノリアのさらに孫・デイジーを語り手として設定している。すべてが終った地平から、回想形式で語られるわけだ。そこで綴られるヴァイオレットの物語は、かつてあった戦争の悲劇の回想へと繋がり、かくして本作は、三重の時間を生きることになる。上官ギルベルトに愛の言葉を教わり、自動書記人形として多くの言葉を語り、やがて語られる側になるヴァイオレット。時を超えた言葉の繋がりを描き出すことが、本作の企図とひとまず言えるだろう。

 本作において時を象徴するイメージが電波塔である。電話の普及により、徐々に手紙はかつての地位を失っていく。しかし郵便社の人々は、その商売敵を「いけ好かない」とは言いつつも、淡々と時代の変化を受け入れている。中盤、彼らは依頼主の少年ユリスの望みを叶えるため、この新しいテクノロジーを頼ることにもなるのだ。メディアが変わっても、言葉を通じ合わせることの歓びは変わらない。

 

 物語は、死んだと思われていたギルベルトが実は生き延びていて、辺鄙な小島でひっそり暮らしていたという事実の判明から幕を開ける。戦争の傷を色濃く残す島で、ギルベルトは希少な男性労働力として貢献しているようだ。それは彼なりの贖罪行為でもあるのだろう。当然ながらヴァイオレットに対しても強い罪悪感を持つ彼は、せっかく島にやってきた彼女と会おうともしない。そんな彼が、逡巡の末にヴァイオレットと出会い直し、新しい時を一緒に生き始める――これが本作の主筋となる。

 しかしながら、こんなおとぎ話的なハッピーエンドが必ずしも必要だったのか、という疑問は残る。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは、戦争と上官が世界のすべてだった少女が、様々な人々と時間を共有する中で新たな自己を形成していくという物語だったのではないのか。大切な人を失っても、なお生きるための術を学ぶ、翳りを帯びたビルドゥングス・ロマン。それゆえ、ギルベルトとくっついてめでたしめでたしということが本当に着地点でよいのか、という気は、どうしてもしてしまう。

 しかし本作の作り手たちは、あくまでヴァイオレットに目一杯の幸福を与えてやることにこだわった。それが「親心」というものだろう。文字通り言葉を失うヴァイオレットと、彼女を片腕で抱き留めるギルベルト。最上の結末に至ってしまった彼女に、もはや物語られるべきものは残っておらず、時間に呑まれてすべてが過去になってしまった後、デイジーは彼女をめぐるわずかな後日談を語り、家族に向けて手紙を書く。3つの時間はひとつに閉じて、映画は終る。TV版が放送されてから2年半、この物語を最後まで観ることができてよかった、と思うばかりだ。

 

 なお、本作で非常に重要な役割を果たすことになるのが郵便社の社長、ホッジンズである。ヴァイオレットの成長に感じ入り、彼女の結婚を意識して気を揉み、「子供ができるなら息子がいい。娘じゃ身が持たない」とぼやいてみせる彼は、世の父親そのもの。そう、本作はいわば疑似的な「娘の嫁入り」物語でもあるのだ。

 電波塔の完成を祝う花火を見つめながら、ホッジンズはふと彼女の不在に気づく。祝福と寂寥の入り混じった表情を浮かべてひとつの時間の終局を見届ける彼の姿には、作り手の、そして観客の心情が、ささやかに織り込まれているように思われてならない。

 

 

 

中村文則についてあえて語る

(2021/12/02改稿。「僕」という一人称で誰かを罵倒するという記述の形式にこそばゆさを感じる年齢になった)

 書店に行く人なら誰でも、「中村文則」という名前を記され、百田尚樹の左隣あたりに平積みされている分厚い書物を見たことがあるだろう。「光と闇」とか「絶対的な悪」とか「生きている確率は4パーセント」とか、三流邦画みたいな大仰なフレーズが帯にてんこ盛りになっているあれだ。

 中村文則。この人は純文学クラスターの中では抜群の売れっ子作家だし、現在、新潮文学賞の選考委員を務めており(大半の応募作は少なくともこいつよりはハイレベルなんじゃないだろうか)、文壇の中枢に見事に収まっている。文芸誌の批評欄はとっくに馴れ合い翼賛体制に入っており、その職責に見合う批判がまったくなされていないあたりは、昨今の末期的な政治風土を連想させると言うべきか。

 タイトルから察していただけるかと思うが僕はこの作家が死ぬほど嫌いだ。よって以下、その理由を述べる。なお「嫌い嫌いも好きのうち」とか「愛ゆえの批判」とかそういうアイロニーは、ここにはまったくないことを予め明記しておく。単にクソをクソと言うだけの話である。

 

作文能力の低さ

 単刀直入に言うべきだろう。この作家が駄目なのはまず文章、日本語だ。

 男は五十代に見える。着ているスーツは安くはないが、特別に高いものでもない。靴も、時計も、趣味は悪くないが、特別によいとも言えない。顔は醜くはないが、決して女を惹きつけるものではない。

  男は携帯電話を切り、気だるそうに視線を斜めに向ける。そこには三十 代くらいの男が いる。その男は趣味のいいスーツを着、パソコンの画面 を見つめている。目が大きく、眉も奇麗に整えられ、比較的女を惹きつける 外見をしている。(『教団X』集英社2015年)

 初期の山田悠介みたいな生硬な文章だが、それ以前の問題として、この記述を読んで「五十代の男」や「三十代の男」について何か具体的なイメージを抱ける人間が地球上に存在するのだろうかという疑問がある。もしいらっしゃるとしたら聞いてみたい――「趣味は悪くないが、特別によいとも言えない」って何?

 これだけ短い文章中に繰り返される「女を惹きつける 」なる意味不明なレトリックにも注目しておこう。これは具体的にどういう外見なのか。その細部を言葉にしなければ、何も表現したことにはならない。言うまでもなく、モテるルックスにも種類というものがあるからだ。ともあれ中村の小説は、おおよそすべてこんな調子の不正確な文章で構成されている。読者や編集者は読んでいて気にならないのか?

 解説文は小説より多少はマシだが、まあ似たようなものだ。

 社会の『普通』を揺るがす作品を書き続けている村田沙耶香という存在は、僕にとって、とても重要で特別な存在だったりする。天然の爆発力のように見え、とても巧みだったりする。非常に希有な才能でもある。こういう作家が、同じ時代にいて本当に良かったと、僕はもうずっと思っている。(村田沙耶香コンビニ人間』文春文庫2018年)

 何だか出来の悪い大学生が〆切に追われて書いた水増しレポートといった印象を抱かせるこれらの記述もまた、「重要」とか「特別」とか抽象的な語が乱発されるばかりで、文章がまともな論理を組織していないことがわかる。ついで言えば、この何の意味も配慮もない「ったり」という言い回しが、セーターにくっついた大量の御飯粒のような不潔感を抱かせはしないだろうか。「重要で特別な存在である」「とても巧みだ」では駄目なのか。そんなに口語調にしたいのか。

 なお、彼には絶望的なまでにユーモアのセンスがない(たまにギャグらしき何かが出てくることもあるが、その滑り方が痛ましいだけ)のだが、ときおり以下のような失笑を誘うくだりもあり、索漠とした読書の中で一服の清涼剤になってくれる。敵国の女性兵士が死を覚悟して、さして親しくもない主人公にいきなりキスをせがむというシーンだ。

「……矢崎」アルファの目がうっすら開き、呟くように言う。

「キスして、……くれないか」

「え?」

 アルファが弱々しく笑みを浮かべている。

「私は、ずっと、銃を持って、……暮らしていた。……ヨマ教の、私の宗派は、婚前交渉を、禁止されている。……だから、そういう、経験がない。……幼少の頃の、その片思いだけだ」

 矢崎はアルファを抱き起こし、キスをする。一度唇を離した後も、矢崎はもう一度キスをする。矢崎とアルファの目に涙が滲んでいく。

「……これが、恋愛というものか」

 アルファが矢崎を見つめて微笑む。

「……いいものだな」(『R帝国』中央公論新社2017年)

 

 無論、文章のうまい下手というのは一律的な基準で評価できるものではないし、それだけで文芸作品の価値が決まるわけではない。ただこいつの場合は下手さ加減が論外すぎて、まともに読む気になれないのである。 

 

メロドラマと政治

 男は児童虐待のトラウマで希志念慮、女は流産で不感症。芥川賞受賞作『土の中の子供』は、こうしたメロドラマ的設定がメロドラマ的な文章でメロドラマ的に展開していく、ただそれだけの作品である。これでも彼の本の中では相当マシな部類なのだが、受賞に反対した村上龍は、選評で以下のように述べている。

  虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない。(中略)『土の中の子供』は、そういう文学的な「畏れ」と「困難さ」を無視して書かれている。深刻さを単になぞったもので、痛みも怖さもない。そういう作品の受賞は、虐待やトラウマやPTSDの現実をさらにワイドショー的に陳腐化するという負の側面もあり、わたしは反対した。(『文藝春秋』2005年9月号)

文藝春秋

  これは、彼の小説のほぼすべてに該当する指摘と言える。ここでの「虐待」が、『掏摸』や『悪と仮面のルール』(このタイトルセンスの不在ぶり)では何かしら巨悪の「陰謀」に、『教団X』では「カルト」と「テロ」に、『R帝国』では「戦争」と「独裁」に、どんどんエスカレートしていったわけである。いや、もっとはっきり言えば、通俗的で刺激的な題材に次から次へと飛びついていったわけだ。そうした題材の数々がそれぞれに孕む「痛み」や「怖さ」は、そこでは無視され続けている。そんなことにかかずらっていたら、善悪二元論的な世界観が崩れてしまうからだ。

 メロドラマは極端さを要請する。正義と悪、卑賤と高貴、愛と憎しみ、希望と絶望……誇張されたコントラストで、メロドラマは物語にどぎつい精彩を与え、読者の期待に応えようとする。中村が何故か近頃目の敵にしている新海誠の『君の名は。』は、都会と地方、生と死、ティーンエイジャーの恋愛と宇宙規模の事象という極端な対照性を最大限に利用して見る者を惹きつける、模範的メロドラマである。

 中村の小説に出てくる「悪」も、この力学に従って、どんどん大規模化、大仰化していった。「銃」を手にとった青年の心理から、国家的テロへと。一方、作中にあって中村の考える「正義」が投影された人物は、そこに何の陰影も人格的深みもない平坦な「賢さ」「美しさ」の記号としてのみ存在し、その崇高さを周囲の「愚か」で「醜い」人間との対照でさらに際立たせるという構造が無批判に採用されていくことになる。

 ただ中村は、自分をメロドラマ作家だと自覚してはいないだろう。「リベラル」で「反体制」の、勇気ある政治的作家だと自ら任じている筈である。そのため、彼の小説の登場人物たちは愚にもつかない政治分析や自己啓発的なテツガクの開陳で紙面を埋め尽くし、まともな読者から読む意欲を喪失させてしまう。ここに、職人的なメロドラマ作家である新海誠との決定的な差があるわけだ。

 言うまでもないだろうが、小説に政治的言説を書くのは駄目だとかそういう話をしているわけではない。それがメロドラマ的単純と迎合したとき、何とも幼稚で独善的な言説がそこに生み出されることになる、ということだ。代表的なのは『R帝国』のそれだろう。構造的な貧困の問題がいつの間にか個々人の「善意」の問題へと矮小化され、先進国の人間がもっとよく学び生活意識を改めれば世界は変えられるんだよ、さあ、スマホを置いて、世界に目を開いてごらん――的結論に至る。要は単なる自己啓発である。

 そもそも「善意」で弱者を救うことが美しいという道徳教育的な発想自体が馬鹿げているのであって、そんな救済は、仮に可能だったとしても(もちろん不可能だが)、そこに経済的格差を前提とした「救う側」と「救われる側」の倫理的格差とでも呼ぶべき構造を代わりに生じさせてしまうはずだ。メロドラマで政治を語る者は、大抵の場合、自己陶酔のために政治的言説を利用しているので、かくのごとく社会に対する真摯な思考や感性を欠いてしまうわけだ。

 結論を言っておこう。「芸術家は政治に関わるべきではない」とかいった田舎の風習が主張されているわけではないということは、全体の文意からおおむね理解してもらえると思う。問題はメロドラマや政治そのものではなく、その安易な結びつきにある。

 

 かつてフランソワ・トリュフォーは、フランスの既成映画を批判して以下のように述べた。論旨と直接には関係しないが、中村の本を読むたび思い出すくだりなので引用しておく。

わたしはかならずしもメロドラマを軽蔑するわけではなく、嫌いというわけでもない。美しいメロドラマは感動します。ただし、それはあくまでも単純にメロドラマであるがゆえに美しく感動的なのです。ところが、単なるメロドラマであることを恥じるかのように「心理的リアリズム」などという知的で意味ありげな衣をまとって大衆をだましたのが、かつての伝統的なフランス映画だったのです。(中略)だいいち、「心理的リアリズム」とはまったくの嘘で、主人公の男あるいは女はひたすら感じがよくて正直で、妻あるいは夫を裏切ったりしないし、誰のことも傷つけない。悪意もなく、およそ人間的な欠陥のない善良な人物なのです。周囲の人間は、逆に、卑劣な悪党ばかり。純粋な心を持った主役のせりふは美しく感動的で、傍役の言うことは悪意にみち、愚劣で滑稽という、なんとも鼻持ちならない図式です。純粋な魂が社会の無理解と悪意に傷つき、不幸な運命にうちひしがれる――そうしなければ感動的にならないというような映画のつくりかたそのものが、いかにもいやしくて、やりきれないと思いました。(山田宏一『わがフランス映画誌』平凡社1990年収録)

 

ポリフォニーとは何か

 ところで中村はかねてよりドストエフスキーからの影響を公言しており、『教団X』(もう名前も出したくない)の教祖様はスタヴローギンの稚拙な模倣だったりするのだが、ここにも疑問がある。というのも、彼は本当にドストエフスキーを理解しているのか、ということである。

 ポリフォニーという概念を御存知の方は多いと思う。ミハイル・バフチンが『ドストエフスキー詩学』で用いた概念だ。作者によるひとつの視点に収斂しない、それぞれに独立した複数の声がぶつかり続けることで生れる対話性が、ドストエフスキーの小説の特色だというのだ。それが中村の手にかかると、次のような理解になるらしい。

逃げる山崎のパートのほか、作中には創作や対話、手記といった形でさまざまな物語が交錯する。「ドストエフスキー的なポリフォニーを意識しました」と中村さん。

小説家・中村文則、過去の凄惨な出来事を“あえて”書く理由とは | ananニュース – マガジンハウス (ananweb.jp))最終閲覧日2021年12月2日

インタビュワーが曲解しているのかもしれないが、これは明らかにおかしい。中村は後に「作者とは違う考えもあえて書き込んで」と続けているが、そういう問題でもない。これももう言うまでもないことだが、「手記」とか「告白」とかをあれこれごちゃ混ぜにしたり、『作者とは違う考え」を書き入れたりしても、それでテクストが多声的になるわけではない。

 そもそもこの作家の技術的な問題点として、複数視点の切り替えが死ぬほど下手という事実が挙げられるので「物語が交錯する」ような小説など、むしろ書かない方がよいのではないかという気もする。『教団X』を見てみよう。

私は日本に帰り、自分から師に連絡した。連絡を取った翌日、私の部屋の壁にinvocationの文字があった。私はそれを見つけ、(手記はここで終わっている) 

 こんなところで都合よく手記の執筆を中断する人間がどこにいるもんか、というのがリアリズム小説を読み込んできた一般読者の感覚というものだろう――というか、だいたいこの小説の登場人物たちはひとりとして自然な思考な行動をせず、すべて作者の恣意によって動かされる駒でしかないので、この種の突っ込みをするのも馬鹿らしく思えてくる。漫画みたいなテロ計画、どいつもこいつも頭が空っぽの女たち、何の脈絡もなく始まる政治談議、とつぜん中国に向けて戦闘機を飛ばす自衛隊員、どう考えても不合理な陰謀を張り巡らせる公安……。もっと例を挙げようと思ったが、そうすると小説内のほぼすべての箇所を引用することになるので、止しておく。

 こうした杜撰な作劇が平然と行われるのは、作者が小説というものをアジテーションの道具としか見做していないからだろう。だから、構成要素のすべてが作者の思想を伝達するための書割になってしまう。そのうえ前章でも指摘した通り、中村の小説世界にあっては「正しい側」と「間違っている側」は最初から決まっている。対話や議論の余地は最初からないわけで、その構図のもとで「作者とは違う考え」がいかに書かれていようが、それが最終的に否定されるものである以上、そこにどんな多声性も生じるはずがないではないか。

  いずれにせよ、中村の小説が、ドストエフスキーの美質であるところのポリフォニーとは何の関係もないところで成立していることは誰の目にも明らかである。「ドストエフスキーの影響」などと言って彼を褒め称えている読書人たちがそれを理解していないとも思えないから、彼らは権力者相手ならどんなおべんちゃらでも平気で並べる連中なのだろうと推測するしかない。

 

まとめ

 何も「中村文則を好きなやつは馬鹿だ」とか、そのような強い主張をするつもりはない。僕は批評家でも文学裁判官でもないからだ。中村の小説を愛する人は確かに一定数いるのであり、それを否定しても仕方がない。読書は本来個人的な行為であって、他人にとやかく言われる筋合いはないし、また当然のことだが、文学作品の評価が一意に定まるということもありえない。

 しかしそうした不確かな表現様式を共有するのであれば、作家の側にもそれに見合った慎重さ、謙虚さが要請されるはずだ。中村の最大の問題はまさにそこであって、彼のテクストにはそうした慎重さ、謙虚さが全く感じられないのだ。伝わってくるのはただどこからか借りてきたような皮相的な正義感だけであり、読者はこれを全面的に受け容れて彼の小説を読むことを強要される。しかし政治の世界にあってそんなに「正しい」言説がそうそう存在する筈もなく、実際正しくもなんともないのであって、その理由は既に述べた通りだ。

 読者が自分で何も考えず、作者の主張にひたすら盲従することだけが要請される小説――むしろその点こそ、中村の人気の秘訣なのかもしれない。彼の小説には本質的な苦悩や問いかけが何一つない(深刻ぶった大仰な道具立てがこけおどし以外に何の意味もないこともまた先に論じた通り)ので、あらかじめ答えは決まっているという安心感をもって、読書に臨むことができるわけだ。

 それで実際売れているのだから、戦略としてはいいのかもしれない。だが、そうした戦略は百田尚樹などに限りなく類似するものであって、そのような本の書き手が自らの寝言を「自由思考」などと銘打って宣伝していることの滑稽さは、やはり指摘しておかねばならないことだろうと思い、この記事を書いた。

思春期と越境――『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』感想

(公開当時に他ブログにて書いた記事http://magnetmikan.hatenablog.com/entry/2017/08/21/014813

を改稿したものです)

 

 思春期のノスタルジーを、きっと誰もが愛している。夏祭り、かまびすしい蝉の声、ささやかな家出、自分よりちょっと大人な女子……。1993年に岩井俊二が監督した『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、抑制された脚本と画面で、そんなささやかな等身大のドラマを語った。では2017年に公開されたアニメ版リメーク『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』はどうか。

 

「自分よりちょっと大人な女子」ここは外していない。花火は丸いか平たいかなどという馬鹿丸出しの言い争いに夢中になる男子どもの幼稚さに比べて、なずなが纏う雰囲気は、いかにも中学生離れした「オトナ」のものだ。典道より背丈も高いし、落ち着いているし、泳ぎも速い。「家出」を「かけおち」と言い換えたり、ワンピース姿を披露して「16歳に見えるかな」と呟いてみたり。少年たちにとって、彼女は自分の知らない「オトナ」の世界へと一足先に参入したマドンナとして立ち現れることになる。

 しかし、そんなマドンナとて結局は親の重力から逃れられない一人の子供でしかない。母親に腕を掴まれたなずなは、これまでの謎めいた「オトナ」イメージを振り捨て、激しく暴れ抵抗する。力負けして親に引き摺られながら典道に助けを求める彼女は、これまでとは全然違う、幼い女子中学生としての自らを剥き出しにしている。

 注目すべきは、この決定的に物語が動く場面において、なずなも親という現実を前に一人の子供でしかないという事実が強く提示されている点だろう。彼女が「オトナ」でいられるのは「家出」や「かけおち」という可能性、「もしかしたら」という期待の世界の中を生きているときであって、現実がそこに追いついたとき、彼女の超越性はたちまち消失してしまう。ここから現れる、美しい期待/残酷な現実、という対照性。典道となずなは現実を振り切り、可能性、「もしかしたら」の側へと逃避行を続けていくことになるのである。

 

 この映画にあっては、タイムリープを行えば行うだけ、映像的にも物語的にも、その虚構性が増大していくという(それ自体興味深い)構造を指摘することができる。歩道と草原の間の溝を飛び越える、プラットフォームから電車に飛び乗るなど「越境」のイメージが作中何度も強調されるように、彼らが「もしこうだったら……」を重ねるたび、幻想の世界は奥へ奥へと彼らをいざなっていく。打ち上げ花火は平たくなり、なずながお姫様になり、どこからともなく馬車が出てきて、電車で海を渡る。現実は母親や祐介たちと同じように、どんどん後方に遠ざかり、やがて消える。彼らが最後に辿り着く世界は、何やら波紋状の透明な壁に覆われてしまっている。願望の終着点、二人だけのセカイ。

 だが平べったい打ち上げ花火が存在しないように、「典道くんの世界」は所詮幻想でしかありえない。ふとしたきっかけで、謎のガラス玉は花火として打ち上げられてしまう。ガラス玉は膨張して破裂し、そして各々の「あり得たかもしれない幸せ」が破片として降ってくる。本編最大のクライマックスだ。

 ラストシーンをどう解釈するかにもよるけれども、この映画は実は古典的な「行きて帰りし物語」の構造に立脚していると言えるだろう。人は、越境と帰還というイニシエーションを経て、何かを失い、何かを得る。思春期という季節が、開かれた可能性の中から何かを選び取り、他の可能性を喪失していくプロセスなのだとしたら、そこには常に「あのときそうしていれば……」という思いが付きまとうはずだ。ならばifへの憧憬の象徴が砕け散り、典道くんがその破片の一つを手にするシーンは、思春期の普遍的な局面を表現するものでもあるだろう。

 ラストシーンは複数の解釈を許し、やや不気味な印象を与えもする。なずなの過去にまつわって水死体-ガラス玉のイメージが置かれており、典道はそれをなぞる形で海に飛び込むからだ(こういう挿話や小道具が照応するつくりは巧いと思う)。公開当時は「典道が元の世界に帰ってこられなくなった」「死んだ」と受け取る人も多かったと記憶している。ただ、個人的にはそうではないと思う。なにせ典道の場合、あのガラス玉は破壊されてしまっているのだ。

 とすれば、典道はガラス玉=ifを失った世界の中で、それでも目指すべき未来を見つけた、という解釈が導かれるはずだ。だから彼はきっと、転校したなずなを追いかけに行ったのだ――観た当時からそう思っていたが、後に出たコミック版ではこの解釈が採られていて(と記憶している。いま手許にないのだが……)、ちょっと嬉しくなった。

 

 映画館でこの作品を観たときのことは、今も覚えている。劇場が明るくなった途端に女児が「何これ?」と野次を飛ばし、デブのチェック柄アニメオタク二人組が「脚本で失敗している」などとデカい声で論評を語り合い、高校生カップルは気まずい雰囲気を漂わせつつ早足で劇場を後にしていた。ネットには酷評が溢れていた。こうした「満場一致」感のある世評に、いまさら異議申し立てをしようとは思わない。確かにひどい出来栄えの映画だと思う。

 ただ、このリメークには、原作を大胆に読み替えてやろうというチャレンジの精神がある。それは確かだ。そのような失敗作は、失敗作なりに肯定されてもいいのではないか、と思う。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』感想

(ネタバレ有)

 

youtu.be

 

 かつて18世紀のヨーロッパで、手紙というメディアはその最良の繁栄を謳歌していた。ほぼ唯一の連絡手段として、あるいは自己表現として、人々は手紙を書き送った。やがて19世紀末から20世紀にかけて電話が普及し、手紙はかつてのような地位を追われていく。電灯や電波塔の建設にそうした時代の転換をみながら、本作はある姉と妹の物語を紡いでいく。

 時代が変化するように、人もまた変化していく。だいいち『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の基幹にあるのが、主人公ヴァイオレットの身体の変化である。即ち少女兵としてのみ存在し得る身体から、自動手記人形=媒介者としての身体へと。「外伝」では、ヒロインのイザベラ・ヨークの変容が描かれていく。何者でもなかった貧民から一転、貴族としての地位を与えられ、その階級、ジェンダーに相応しい存在へと規律=訓練されていく。「僕」は「私」になる。しかし、その過程において――ヴァイオレットとの交流の中で――彼女はひとときだけ、階級に縛られない自由を見出すのだ。その関係は、何となく戦前の女学生のエス文化を思わせるものがある。ヴァイオレットの帰還によって、彼女が再び鉄格子=階級の中に閉ざされるところで一部は終る。

 二部では妹テイラーの物語が展開され、彼女もまた孤児から配達員に生まれ変わっていく。一方は階級に閉ざされていく者として、一方は媒介者として自らを作り替えるのだ。やがて妹は完璧な配達員として、名実共に貴族となった(なってしまった)かつての姉の許に赴くだろう。史実がどうであったかはさておき、本作においては「手紙」に、階級を超える繋がりの希望が仮託されているわけだ。

 二つではほどけてしまいますよ、三つで結えば…とヴァイオレットが言うように、本作ではヴァイオレット(というかベネディクト君なども併せて「郵便社が」と言うべきかもしれないが)が姉妹を媒介する第三の存在となる。実際「外伝」では、一度目はイザベラと、二度目はテイラーと、都合二回もヴァイオレットの入浴シーンを拝めるのだが、勿論単なるサーヴィスではなくて、恐らくは剥き出しの身体同士が出会うということが重要なのだろう。普段は見えない義手と肉体の接合部が、かつて「戦う人」であり、いまは「書く人」となった彼女の痛ましい来歴を窺わせる。なるほど彼女の存在は矛盾だらけかもしれない。しかしそんな二つの人生をその身体に引き受けて生きる彼女だからこそ、異種になってしまった者同士を繋ぎ合せることができるのかもしれない、とも思った。

 あったことをなかったことにすることはできない。これもまた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』全体を貫くテーマである。ヴァイオレットが兵士であった過去を捨て去ることができないように、イザベラもまた貴族の道を選んだことを取り消すことはできない。彼女は貴族の妻として生きていくのだろう。しかし、その中でなお、彼女にはエイミーとしてかつて呼ばれた身体が、妹その人の名前を叫べる身体がある。彼女が貴族の衣裳を棄て、再びエイミーとしての身体を取り戻す瞬間は美しい。不可逆の変容の中にあってなお、人は手紙によって、自己表現によって、再生の機を見出すことができるのだ。その意味で、本作は表現による再生を、分断の超克を、どこまでも素直に歌い上げた作品であろう。確かにそのような理想は、今や大時代的なものとなりつつあるかもしれない。しかし、だからこそと言うべきか、今そのメッセージが確かに届けられたことに、胸を打たれるほかはない。

 なお、エンドクレジットで席を立つことを無闇に非難する風潮は私は嫌いなのだが(いつ出入りしようが客の自由だろうと思う)、本作に関してはやはり最後の最後まで観るべきだろう。本作を観た者なら、新作の予告に附された「鋭意制作中」の言葉に、きっと特別な思いを抱かずにはいられないからだ。何年でも待つから、焦らずゆっくりと再生の道を歩んでいってほしいと思う。